2月11日 建国記念の日
もともとは1872年(明治5)に、紀元節(きぜんせつ)という名前ではじまった記念日で、「古事記」「日本書紀」の記述にもとづき、初代天皇とされる神武天皇が即位した日といわれています。
当初は1月29日が祝日にさだめられていましたが、翌73年に、太陽暦の採用にともなう措置として、期日を2月11日に変更されました。
その後、第二次大戦後に廃止されましたが、1966年(昭和41)に「建国記念の日」という名で復活し、翌年より実施されています。
制定当初は、まだ成立したばかりの明治政府首脳が、天皇を中心とした国家支配体制の正当性を内外にしめす必要から制定されたと考えられていますが、現在の建国記念の日は、「建国をしのび、国を愛する心を養う日」とされています。
むかしむかし、日向の国(ひゅうがのくに→宮崎県)に、伊波礼毘古命(いわれびこのみこと)という人がいました。
伊波礼毘古命は、高千穂(たかちほ)というところで国をおさめていましたが、そこはあまりにもはしっこの国だったので、もっと東の方へ移ろうと思い、軍隊をひきいてそこを出発しました。
そして海を渡ったり、陸を進んだり、長い月日をあちらこちらと歩きまわりました。
ある年の夏、伊波礼毘古命の軍隊が、今の大阪湾から陸へあがろうとしたときのことです。
大和の国(やまとのくに→奈良県)の、いなかのほうにいた長髄彦(ながすれひこ)という人が、
「伊波礼毘古命の軍隊がここへ来たのは、きっと、わたしたちの国をうばい取るつもりなのだろう」
と、思い、たくさんの兵隊を集めて、待ちかまえていました。
それで伊波礼毘古命の軍隊が乗った船が浜辺につくなり、さかんに矢をいてきました。
伊波礼毘古命の軍隊はたてを手に持ち、ビュー、ビューと飛んでくる矢を防ぎながら、陸にあがって戦いました。
この戦いで、伊波礼毘古命の兄さんが、長髄彦の矢に当たって深いきずを受けました。
兄さんは、そのきずをおさえながら言いました。
「わたしたちは太陽の子でいながら、太陽のほうに向かって戦ったのがまちがいだった。これから遠まわりをして、太陽を後ろにして戦おう」
そこで伊波礼毘古命の軍隊は、もう一度船に乗って南の方へまわることにしました。
その途中、兄さんは矢のきずがもとで、なくなってしまいました。
「ようし、兄さんのかたきは、きっと取ってみせるぞ」
伊波礼毘古命はそう決心をし、長髄彦をにくみました。
伊波礼毘古命の軍隊が陸にあがると、べつの新しい敵がいました。
この敵をうつために、けわしい山道を道案内をしてくれたのは、『八咫(やた)ガラス』という、カラスでした。
こうして伊波礼毘古命の軍隊は、ようやく長髄彦のいるあたりへ来ました。
長髄彦も、伊波礼毘古命の軍隊が攻めよせてくることを早くから知っていたのでしょう。
敵ながら、力いっぱい戦いました。
そのうちに、長髄彦のほうの兵隊の勢いが強くなり、伊波礼毘古命の軍隊は負けそうになってきました。
「あぶない、味方がやられる!』
伊波礼毘古命がそう思ったとき、にわかに空が暗くなって、大雨が降ってきました。
そして大雨の中を、どこからか金色のトビが飛んできて、軍隊を指揮している伊波礼毘古命が持った弓のてっぺんにとまったのです。
「うわっ、まぶしい!」
長髄彦の兵隊は、うろたえてさけびました。
その金色のトビの光りかがやくようすが、まるでいなびかりのように見えたのです。
「これは、たまらん!」
敵のだれもがまぶしさに目がくらんでしまい、もう戦うどころではありません。
おかげで味方の軍隊は勢いをもりかえし、伊波礼毘古命は長髄彦をうちほろぼすことができました。
この伊波礼毘古命という人が、神武天皇(じんむてんのう)なのです。
おしまい
他の記念日
文化勲章制定記念日
1937(昭和11)年、文化勲章令が定められ、文化の発展に優れた業績をあげた各界の人に文化勲章が贈られることになりました。
万歳三唱の日
1889(明治22)年、帝国憲法発布の記念式典で、初めて万歳三唱が行われました。
干支供養の日
干支置物等を製作している陶磁器メーカー・中外陶園が制定。
立春の直後で、十と一を組み合わせると「土」になることから。
一年間大切に飾られ厄を払ってくれた干支置物に感謝し、元の土に還す日。
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