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福娘童話集 > アニメかみしばい 銀河鉄道の夜・前編
銀河鉄道の夜・前編
動画制作 tsutosh
原作 宮沢賢治
一 午後の授業
「ではみなさん、さういふふうに川だと云はれたり、乳の流れたあとだと云はれたりしてゐた、このぼんやりと白いものが何かご承知ですか。」
先生は、黒板に吊した大きな黒い星座の圖の、上から下へ白くけぶつた銀河帶のやうなところを指しながら、みんなに問ひをかけました。
カムパネルラが手をあげました。
それから四五人手をあげました。ジヨバンニも手をあげようとして、急いでそのままやめました。
たしかにあれがみんな星だと、いつか雜誌で讀んだのでしたが、このごろはジヨバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を讀むひまも讀む本もないので、なんだかどんなこともよくわからないといふ氣持がするのでした。
ところが先生は早くもそれを見附けたのでした。
「ジヨバンニさん。あなたはわかつてゐるのでせう。」
ジヨバンニは勢よく立ちあがりましたが、立つて見るともうはつきりとそれを答へることができないのでした。
ザネリが前の席から、ふりかへつて、ジヨバンニを見てくすつとわらひました。
ジヨバンニはもうどぎまぎしてまつ赤になつてしまひました。
先生がまた云ひました。
「大きな望遠鏡で銀河をよつく調べると銀河は大體何でせう。」
やつぱり星だとジヨバンニは思ひましたが、こんどもすぐに答へることができませんでした。
先生はしばらく困つたやうすでしたが、眼をカムパネルラの方へ向けて、
「ではカムパネルラさん。」
と名指しました。
するとあんなに元氣に手をあげたカムパネルラが、もぢもぢ立ち上つたままやはり答へができませんでした。
先生は意外のやうにしばらくぢつとカムパネルラを見てゐましたが、急いで、
「では。よし。」
と云ひながら、自分で星圖を指しました。
「このぼんやりと白い銀河を大きないい望遠鏡で見ますと、もうたくさんの小さな星に見えるのです。ジヨバンニさんさうでせう。」
ジヨバンニはまつ赤になつてうなづきました。
けれどもいつかジヨバンニの眼のなかには涙がいつぱいになりました。さうだ僕は知つてゐたのだ、勿論カムパネルラも知つてゐる、それはいつかカムパネルラのお父さんの博士のうちでカムパネルラといつしよに讀んだ雜誌のなかにあつたのだ。
それどこでなくカムパネルラは、その雜誌を讀むと、すぐお父さんの書齋から巨きな本をもつてきて、ぎんがといふところをひろげ、まつ黒な頁いつぱいに白い點々のある美しい寫眞を二人でいつまでも見たのでした。
それをカムパネルラが忘れる筈もなかつたのに、すぐ返事をしなかつたのは、このごろぼくが、朝にも午後にも仕事がつらく、學校に出てももうみんなともはきはき遊ばず、カムパネルラともあんまり物を云はないやうになつたので、カムパネルラがそれを知つて氣の毒がつてわざと返事をしなかつたのだ。
さう考へるとたまらないほど、じぶんもカムパネルラもあはれなやうな氣がするのでした。
先生はまた云ひました。
「ですからもしもこの天の川がほんたうに川だと考へるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。
またこれを巨きな乳の流れと考へるなら、もつと天の川とよく似てゐます。
つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでゐる脂油の球にもあたるのです。
そんなら何がその川の水にあたるかと云ひますと、それは眞空といふ光をある速さで傳へるもので、太陽や地球もやつぱりそのなかに浮んでゐるのです。
つまりは私どもも天の川の水のなかに棲んでゐるわけです。
そしてその天の川の水のなかから四方を見ると、ちやうど水が深いほど青く見えるやうに、天の川の底の深く遠いところほど星がたくさん集つて見え、したがつて白くぼんやり見えるのです。この模型をごらんなさい。」
先生は中にたくさん光る砂のつぶの入つた大きな兩面の凸レンズを指しました。
「天の川の形はちやうどこんななのです。
このいちいちの光るつぶがみんな私どもの太陽と同じやうにじぶんで光つてゐる星だと考へます。
私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあつて地球がそのすぐ近くにあるとします。
みなさんは夜にこのまん中に立つてこのレンズの中を見まはすとしてごらんなさい。
こつちの方はレンズが薄いのでわずかの光る粒即ち星しか見えないのでせう。
こつちやこつちの方はガラスが厚いので、光る粒即ち星がたくさん見え、その遠いのはぼうつと白く見えるといふ、これがつまり今日の銀河の説なのです。
そんならこのレンズの大きさがどれ位あるか、またその中のさまざまの星についてはもう時間ですから、この次の理科の時間にお話します。
では今日はその銀河のお祭なのですから、みなさんは外へでてよくそらをごらんなさい。
ではここまでです。本やノートをおしまひなさい。」
そして教室中はしばらく机の蓋をあけたりしめたり本を重ねたりする音がいつぱいでしたが、まもなくみんなはきちんと立つて禮をすると教室を出ました。
二 活版所
ジヨバンニが學校の門を出るとき、同じ組の七八人は家へ歸らずカムパネルラをまん中にして校庭の隅の櫻の木のところに集まつてゐました。
それはこんやの星祭に青いあかりをこしらへて、川へ流す烏瓜を取りに行く相談らしかつたのです。
けれどもジヨバンニは手を大きく振つてどしどし學校の門を出て來ました。
すると町の家々ではこんやの銀河の祭りにいちゐの葉の玉をつるしたり、ひのきの枝にあかりをつけたり、いろいろ仕度をしてゐるのでした。
家へは歸らずジヨバンニが町角を三つ曲つてある大きな活版所にはいつて、靴をぬいで上りますと、突き當りの大きな扉をあけました。
中にはまだ晝なのに電燈がついて、たくさんの輪轉器がばたり、ばたりとまはり、きれで頭をしばつたり、ラムプシエードをかけたりした人たちが、何か歌ふように讀んだり數へたりしながらたくさん働いて居りました。
ジヨバンニはすぐ入口から三番目の高い椅子に坐つた人の所へ行つておじぎをしました。その人はしばらく棚をさがしてから、
「これだけ拾つて行けるかね。」
と云ひながら、一枚の紙切れを渡しました。
ジヨバンニはその人の椅子の足もとから一つの小さな平たい箱をとりだして、向うの電燈のたくさんついたたてかけてある壁の隅の所へしやがみ込むと、小さなピンセツトでまるで粟粒ぐらゐの活字を次から次と拾ひはじめました。
青い胸あてをした人がジヨバンニのうしろを通りながら、
「よう、蟲めがね君、お早う。」
と云ひますと、近くの四五人の人たちが聲もたてずこつちも向かずに冷めたくわらひました。
ジヨバンニは何べんも眼を拭ひながら活字をだんだんひろひました。
六時がうつてしばらくたつたころ、ジヨバンニは拾つた活字をいつぱいに入れた平たい箱をもういちど手にもつた紙きれと引き合せてから、さつきの椅子の人へ持つて來ました。
その人は默つてそれを受け取つて微かにうなづきました。
ジヨバンニはおじぎをすると扉をあけて計算臺のところに來ました。
すると白服を着た人がやつぱりだまつて小さな銀貨を一つジヨバンニに渡しました。
ジヨバンニは俄かに顏いろがよくなつて威勢よくおじぎをすると、臺の下に置いた鞄をもつておもてへ飛びだしました。
それから元氣よく口笛を吹きながらパン屋へ寄つてパンの塊を一つと角砂糖を一袋買ひますと一目散に走りだしました。
三 家
ジヨバンニが勢よく歸つて來たのは、ある裏町の小さな家でした。
その三つならんだ入口の一番左側には空箱に紫いろのケールやアスパラガスが植ゑてあつて、小さな二つの窓には日覆ひが下りたままになつてゐました。
「お母さん、いま歸つたよ。工合惡くなかつたの。」
ジヨバンニは靴をぬぎながら云ひました。
「ああ、ジヨバンニ、お仕事がひどかつたらう。今日は涼しくてね。わたしはずうつと工合がいいよ。」
ジヨバンニは玄關を上つて行きますとジヨバンニのお母さんがすぐ入口の室に白い布を被つてやすんでゐたのでした。
ジヨバンニは窓をあけました。
「お母さん、今日は角砂糖を買つてきたよ。牛乳に入れてあげようと思つて。」
「ああ、お前さきにおあがり。あたしはまだほしくないんだから。」
「お母さん。姉さんはいつ歸つたの。」
「ああ、三時ごろ歸つたよ。みんなそこらをしてくれてね。」
「お母さんの牛乳は來てゐないんだらうか。」
「來なかつたらうかねえ。」
「ぼく行つてとつて來よう。」
「あああたしはゆつくりでいいんだからお前さきにおあがり。姉さんがね、トマトで何かこしらへてそこへ置いて行つたよ。」
「ではぼくたべよう。」
ジヨバンニは窓のところからトマトの皿をとつてパンといつしよにしばらくむしやむしやたべました。
「ねえお母さん。ぼくお父さんはきつと間もなく歸つてくると思ふよ。」
「あああたしもさう思ふ。けれどもおまへはどうしてさう思ふの。」
「だつて今朝の新聞に今年は北の方の漁は大へんよかつたと書いてあつたよ。」
「あつたけどねえ、お父さんは漁へ出てゐないかもしれない。」
「きつと出てゐるよ。お父さんが監獄へ入るやうなそんな惡いことをした筈がないんだ。
この前お父さんが持つてきて學校に寄贈した巨きな蟹の甲らだの馴鹿の角だの、今だつてみんな標本室にあるんだ。
六年生なんか、授業のとき先生がかはるがはる教室へ持つて行くよ。」
「お父さんはこの次はおまへにラツコの上着をもつてくるといつたねえ。」
「みんながぼくにあふとそれを云ふよ。ひやかすように云ふんだ。」
「おまへに惡口を云うの?」
「うん、けれどもカムパネルラなんか決して云はない。カムパネルラはみんながそんなことを云ふときは氣の毒さうにしてゐるよ。」
「カムパネルラのお父さんとうちのお父さんとはちやうどおまへたちのやうに、小さいときからお友達だつたさうだよ。」
「ああだからお父さんはぼくをつれてカムパネルラのうちへもつれて行つたよ。
あのころはよかつたなあ。ぼくは學校から歸る途中たびたびカムパネルラのうちに寄つた。カムパネルラのうちにはアルコールラムプで走る汽車があつたんだ。
レールを七つ組み合せると圓くなつてそれに電柱や信號標もついてゐて、信號標のあかりは汽車が通るときだけ青くなるやうになつてゐたんだ。
いつかアルコールがなくなつたとき石油をつかつたら、罐がすつかり煤けたよ。」
「さうかねえ。」
「いまも毎朝新聞をまはしに行くよ。けれどもいつでも家中まだしいんとしてゐるからな。」
「早いからねえ。」
「ザウエルといふ犬がゐるよ。
しつぽがまるで箒のやうだ。
ぼくが行くと鼻を鳴らしてついてくるよ。
ずうつと町の角までついてくる。もつとついてくることもあるよ。
今夜はみんなで烏瓜のあかりを川へながしに行くんだつて。
きつと犬もついて行くよ。」
「さうだ。今晩は銀河のお祭だねえ。」
「うん。ぼく牛乳をとりながら見てくるよ。」
「ああ行つておいで。川へははいらないでね。」
「ああぼく、岸から見るだけなんだ。一時間で行つてくるよ。」
「もつと遊んでおいで。カムパネルラさんと一緒なら心配はないから。」
「ああきつと一緒だよ。お母さん、窓をしめて置かうか。」
「ああ、どうか。もう涼しいからね。」
ジヨバンニは立つて窓をしめ、お皿やパンの袋を片附けると勢よく靴をはいて、
「では一時間半で歸つてくるよ。」と云ひながら暗い戸口を出ました。
四 ケンタウル祭の夜
ジヨバンニは、口笛を吹いてゐるやうなさびしい口付きで、檜のまつ黒にならんだ町の坂を下りて來たのでした。
坂の下に大きな一つの街燈が、青白く立派に光つて立つてゐました。
ジヨバンニがどんどん電燈の方へ下りて行きますと、いままでばけもののやうに、長くぼんやり、うしろへ引いてゐたジヨバンニの影ぼふしは、だんだん濃く黒くはつきりなつて、足をあげたり手を振つたり、ジヨバンニの横の方へまはつて來るのでした。
(ぼくは立派な機關車だ。
ここは勾配だから速いぞ。ぼくはいまその電燈を通り越す。そうら、こんどはぼくの影法師はコムパスだ。あんなにくるつとまはつて、前の方へ來た。)
とジヨバンニは思ひながら、大股にその街燈の下を通り過ぎたとき、いきなりひるまのザネリが、新しいえりの尖つたシヤツを着て、電燈の向う側の暗い小路から出て來て、ひらつとジヨバンニとすれちがひました。
「ザネリ、烏瓜ながしに行くの。」ジヨバンニがまださう云つてしまはないうちに、その子が投げつけるやうにうしろから、さけびました。
「ジヨバンニ、お父さんから、ラツコの上着が來るよ。」
ジヨバンニは、はつと胸がつめたくなり、そこら中きいんと鳴るやうに思ひました。
「何んだ、ザネリ。」とジヨバンニは高く叫び返しましたが、もうザネリは向うのひばの植つた家の中へはいつてゐました。
(ザネリはどうしてぼくがなんにもしないのにあんなことを云ふのだらう。走るときはまるで鼠のやうなくせに。ぼくがなんにもしないのにあんなことを云ふのはザネリがばかだからだ。)
ジヨバンニは、せはしくいろいろのことを考へながら、さまざまの灯や木の枝で、すつかりきれいに飾られた街を通つて行きました。
時計屋の店には明るくネオン燈がついて、一秒ごとに石でこさへたふくろふの赤い眼が、くるつくるつとうごいたり、いろいろな寶石が海のやうな色をした厚い硝子の盤に載つて、星のやうにゆつくりめぐつたり、また向う側から、銅の人馬がゆつくりこつちへまはつて來たりするのでした。
そのまん中に圓い黒い星座早見が青いアスパラガスの葉で飾つてありました。
ジヨバンニはわれを忘れてその星座の圖に見入りました。
それはひる學校で見たあの圖よりはずうつと小さかつたのですが、その日の時間に合せて盤をまはすと、そのとき出てゐるそらがそのまま楕圓形のなかにめぐつてあらはれるやうになつて居り、やはりそのまん中には上から下へかけて銀河がぼうとけむつたやうな帶になつて、その下の方ではかすかに爆發して湯氣でもあげてゐるやうに見えるのでした。
またそのうしろには三本の脚のついた小さな望遠鏡が黄いろに光つて立つてゐましたし、いちばんうしろの壁には空ぢゆうの星座をふしぎな獸や蛇や魚などの形に書いた大きな圖がかかつてゐました。
ほんたうにこんなやうな蝎だの勇士だのそらにぎつしり居るだらうか、ああぼくはその中をどこまでも歩いて見たいと思つたりしてしばらくぼんやり立つて居ました。
それから俄かにお母さんの牛乳のことを思ひだしてジヨバンニはその店をはなれました。
そしてきゆうくつな上着の肩を氣にしながら、それでもわざと胸を張り、大きく手を振つて町を通つて行きました。
空氣は澄みきつて、まるで水のやうに通りや店の中を流れましたし、街燈はみなまつ青なもみや楢の枝で包まれ、電氣會社の前の六本のプラタナスの木などは、中に澤山の豆電燈がついて、ほんたうにそこらは人魚の都のやうに見えるのでした。
子どもらは、みんな新らしい折のついた着物を着て、星めぐりの口笛を吹いたり、「ケンタウルス、露をふらせ。」と叫んで走つたり、青いマグネシヤの花火を燃したりして、たのしさうに遊んでゐるのでした。けれどもジヨバンニは、いつかまた深く首を垂れて、そこらのにぎやかさとはまるでちがつたことを考へながら牛乳屋の方へ急ぐのでした。
ジヨバンニは、いつか町はづれのポプラの木が幾本も幾本も、高く星ぞらに浮かんでゐるところに來てゐました。
その牛乳屋の黒い門を入り、牛の匂のするうすぐらい臺所の前に立つて、ジヨバンニは帽子をぬいで「今晩は」と云ひましたら、家の中はしいんとして誰も居たやうではありませんでした。
「今晩は、ごめんなさい。」
ジヨバンニはまつすぐに立つてまた叫びました。
するとしばらくたつてから、年老つた女の人が、どこか工合が惡いやうにそろそろと出て來て何か口の中で云ひました。
「あの、今日、牛乳が僕んとこへ來なかつたので、貰ひにあがつたんです。」
ジヨバンニが一生けん命勢ひよく云ひました。
「いま誰もゐないでわかりません。あしたにして下さい。」
その人は赤い眼の下のところを擦りながら、ジヨバンニを見おろして云ひました。
「おつかさんが病氣なんですから今晩でないと困るんです。」
「ではもう少したつてから來てください。」
その人はもう行つてしまひさうでした。
「さうですか。ではありがたう。」
ジヨバンニは、お辭儀をして臺所から出ました。けれどもなぜか泪がいつぱいに湧きました。
(ぼくは早く歸つておつかさんにあの時計屋のふくろふの飾りのことや星座早見のことをお話しよう。)
ジヨバンニはせはしくこんなことを考へながら、十字になつた町のかどをまがらうとしましたら、向うの橋へ行く方の雜貨店の前で、黒い影やぼんやりした白いシヤツが入り亂れて、六七人の生徒らが口笛を吹いたり笑つたりして、めいめい烏瓜の燈火を持つてやつて來るのを見ました。
その笑ひ聲も口笛もみんな聞きおぼえのあるものでした。
ジヨバンニの同級の子供らだつたのです。ジヨバンニは思はずどきつとして戻らうとしましたが、思ひ直して一そう勢ひよくそつちへ歩いて行きました。
「川へ行くの。」
ジヨバンニが云はうとして、少しのどがつまつたやうに思つたとき、
「ジヨバンニ、ラツコの上着が來るよ。」
さつきのザネリがまた叫びました。
「ジヨバンニ、ラツコの上着が來るよ。」
すぐみんなが、續いて叫びました。
ジヨバンニはまつ赤になつて、もう歩いてゐるのかもよくわからず、急いで行きすぎようとしましたら、そのなかにカムパネルラが居たのです。
カムパネルラは氣の毒さうに、だまつて少しわらつて、怒らないだらうかといふやうにジヨバンニの方を見てゐました。
ジヨバンニは、遁げるやうにその眼を避け、そしてカムパネルラのせいの高いかたちが過ぎて行つて間もなく、みんなはてんでに口笛を吹きました。
町かどを曲るとき、ふりかへつて見ましたら、ザネリがやはりふりかへつて見てゐました。
そしてカムパネルラもまた、高く口笛を吹いて、向うにぼんやり見えてゐる橋の方へ歩いて行つてしまつたのでした。
ジヨバンニはなんとも云へずさびしくなつて、いきなり走り出しました。
すると耳に手をあてて、わああと云ひながら片足でぴよんぴよん跳んでゐた小さな子供らは、ジヨバンニが面白くてかけるのだと思つて、わあいと叫びました。
どんどんジヨバンニは走りました。
けれどもジヨバンニは、まつすぐに坂をのぼつて、おつかさんの家へは歸らないで、ちやうどその北の方の町はづれへ走つて行つたのです。
そこには、河原のぼうつと白く見える小さな川があつて、細い鐵の欄干のついた橋がかかつてゐました。
(ぼくはどこへもあそびに行くとこがない。ぼくはみんなから、まるで狐のやうに見えるんだ。)
ジヨバンニは橋の上でとまつて、ちよつとの間、せはしい息できれぎれに口笛を吹きながら泣き出したいのをごまかして立つてゐましたが、にはかにまたちからいつぱい走りだして、黒い丘の方へいそぎました。
五 天氣輪の柱
牧場のうしろはゆるい丘になつて、その黒い平らな頂上は、北の大熊星の下に、ぼんやりふだんよりも低く連つて見えました。
ジヨバンニは、もう露の降りかかつた小さな林のこみちをどんどんのぼつて行きました。
まつくらな草や、いろいろな形に見えるやぶのしげみの間を、その小さなみちが、一すじ白く星あかりに照らしだされてあつたのです。
草の中には、ぴかぴか青びかりを出す小さな蟲もゐて、ある葉は青くすかし出され、ジヨバンニは、さつきみんなの持つて行つた烏瓜のあかりのやうだとも思ひました。
そのまつ黒な、松や楢の林を越えると、俄かにがらんと空がひらけて、天の川がしらじらと南から北へ亙つてゐるのが見え、また頂の、天氣輪の柱も見わけられたのでした。つりがねさうか野ぎくかの花が、そこらいちめんに、夢の中からでも薫りだしたといふやうに咲き、鳥が一疋、丘の上を鳴き續けながら通つて行きました。
ジヨバンニは、頂の天氣輪の柱の下に來て、どかどかするからだを、つめたい草に投げました。
町の灯は、暗の中をまるで海の底のお宮のけしきのやうにともり、子供らの歌ふ聲や口笛、きれぎれの叫び聲もかすかに聞えて來るのでした。風が遠くで鳴り、丘の草もしづかにそよぎ、ジヨバンニの汗でぬれたシヤツもつめたく冷やされました。
ジヨバンニはぢつと天の川を見ながら考へました。
(ぼくはもう、遠くへ行つてしまひたい。
みんなからはなれて、どこまでもどこまでも行つてしまひたい。
それでももしもカムパネルラが、ぼくといつしよに來てくれたら、そして二人で、野原やさまざまの家をスケツチしながら、どこまでもどこまでも行くのなら、どんなにいいだらう。
カムパネルラは決してぼくを怒つてゐないのだ。
そしてぼくは、どんなに友だちがほしいだらう。ぼくはもう、カムパネルラが、ほんたうにぼくの友だちになつて、決してうそをつかないなら、ぼくは命でもやつてもいい。
けれどもさう云はうと思つても、いまはぼくはそれをカムパネルラに云へなくなつてしまつた。
一緒に遊ぶひまだつてないんだ。ぼくはもう、空の遠くの遠くの方へ、たつた一人で飛んで行つてしまひたい。)
ジヨバンニは町のはづれから遠く黒くひろがつた野原を見わたしました。
そこから汽車の音が聞えてきました。
その小さな列車の窓は一列小さく赤く見え、その中にはたくさんの旅人が、苹果を剥いたり、わらつたり、いろいろな風にしてゐると考へますと、ジヨバンニは、もう何とも云へずかなしくなつて、また眼をそらにあげました。
……(次の原稿幾枚かなし)……
ジヨバンニは眼をひらきました。
もとの丘の草の中につかれてねむつてゐたのでした。
胸は何だかをかしく熱り、頬にはつめたい涙がながれてゐました。
ジヨバンニは、ばねのやうにはね起きました。
町はすつかりさつきの通りに下でたくさんの灯を綴つてはゐましたが、その光はなんだかさつきよりは熱したという風でした。
そしてたつたいま夢であるいた天の川もやつぱりさつきの通りに白くぼんやりかかり、まつ黒な南の地平線の上では殊にけむつたやうになつて、その右には蝎座の赤い星がうつくしくきらめき、そこらぜんたいの位置はそんなに變つてもゐないやうでした。
ジヨバンニは一さんに丘を走つて下りました。まだ夕ごはんをたべないで待つてゐるお母さんのことが、胸いつぱいに思ひだされたのです。
どんどん黒い松の林の中を通つて、それからほの白い牧場の柵をまはつて、さつきの入口から暗い牛舍の前へまた來ました。
そこには誰かがいま歸つたらしく、さつきなかつた一つの車が、何かの樽を二つ乘つけて置いてありました。
「今晩は。」
ジヨバンニは叫びました。
「はい。」
白い太いずぼんをはいた人がすぐ出て來て立ちました。
「何のご用ですか。」
「今日牛乳がぼくのところへ來なかつたのですが。」
「あ、濟みませんでした。」
その人はすぐ奧へ行つて、一本の牛乳瓶をもつて來て、ジヨバンニに渡しながら、また云ひました。
「ほんたうに濟みませんでした。今日はひるすぎ、うつかりしてこうしの柵をあけて置いたもんですから、大將早速親牛のところへ行つて半分ばかり呑んでしまひましてね……。」
その人はわらひました。
「さうですか。ではいただいて行きます。」
「ええ、どうも濟みませんでした。」
「いいえ。」
ジヨバンニはまだ熱い乳の瓶を兩方のてのひらで包むやうにもつて牧場の柵を出ました。
そしてしばらく木のある町を通つて、大通りへ出てまたしばらく行きますとみちは十文字になつて、右手の方に、さつきカムパネルラたちのあかりを流しに行つた川通りのはづれに大きな橋のやぐらが夜のそらにぼんやり立つてゐました。
ところがその十文字になつた町かどや店の前に女たちが七八人位づつあつまつて橋の方を見ながら何かひそひそ話してゐるのです。それから橋の上にもいろいろなあかりがいつぱいなのでした。
ジヨバンニはなぜかさあつと胸が冷たくなつたやうに思ひました。そしていきなり近くの人たちへ、
「何かあつたんですか。」
と叫ぶやうにききました。
「こどもが水へ落ちたんですよ。」
一人が云ひますと、その人たちは一齊にジヨバンニの方を見ました。
ジヨバンニはまるで夢中で橋の方へ走りました。
橋の上は人でいつぱいで河が見えませんでした。
白い服を着た巡査も出てゐました。
ジヨバンニは橋の袂から飛ぶやうに下の廣い河原へおりました。
その河原の水際に沿つてたくさんのあかりがせはしくのぼつたり下つたりしてゐました。
向う岸の暗いどてにも灯が七つ八つうごいてゐました。
そのまん中を、もう烏瓜のあかりもない川が、わづかに音を立てて灰いろに、しづかに流れてゐたのでした。
河原のいちばん下流の方へ、洲のやうになつて出たところに人の集りがくつきり、まつ黒に立つてゐました。
ジヨバンニはどんどんそつちへ走りました。
するとジヨバンニはいきなりさつきカムパネルラといつしよだつたマルソに會ひました。
マルソがジヨバンニに走り寄つて云ひました。
「ジヨバンニ、カムパネルラが川へはいつたよ。」
「どうして、いつ。」
「ザネリがね。舟の上から烏瓜のあかりを水の流れる方へ押してやらうとしたんだ。そのとき舟がゆれたもんだから水へ落つこちた。するとカムパネルラがすぐ飛びこんだんだ。そしてザネリを舟の方へ押してよこした。ザネリはカトウにつかまつた。けれどもあとカムパネルラが見えないんだ。」
「みんな探してるんだらう。」
「ああ、すぐみんな來た。カムパネルラのお父さんも來た。けれども見つからないんだ。ザネリはうちへ連れられてつた。」
ジヨバンニはみんなの居るそつちの方へ行きました。學生たちや町の人たちに圍まれて、青じろい尖つたあごをしたカムパネルラのお父さんが、黒い服を着てまつすぐに立つて、右手に時計を持つて、ぢつと見つめてゐたのです。
みんなもぢつと河を見てゐました。誰も一言も物を云ふ人もありませんでした。
ジヨバンニはわくわくわくわく足がふるへました。魚をとるときのアセチレンランプがたくさんせはしく行つたり來たりして、黒い川の水はちらちら小さな波をたてて流れてゐるのが見えるのでした。
下流の方の川はば一ぱい銀河が巨きく寫つて、まるで水のないそのままのそらのやうに見えました。
ジヨバンニは、そのカムパネルラはもうあの銀河のはづれにしかゐないといふやうな氣がしてしかたなかつたのです。
けれどもみんなはまだどこかの波の間から、
「ぼくずゐぶん泳いだぞ。」
と云ひながらカムパネルラが出て來るか、或ひはカムパネルラがどこかの人の知らない洲にでも着いて立つてゐて、誰かの來るのを待つてゐるかといふやうな氣がして仕方ないらしいのでした。
けれども俄かにカムパネルラのお父さんがきつぱり云ひました。
「もう駄目です。墜ちてから四十五分たちましたから。」
ジヨバンニは思はずかけよつて、博士の前に立つて、ぼくはカムパネルラの行つた方を知つてゐます。
ぼくはカムパネルラといつしよに歩いてゐたのです。
と云はうとしましたが、もうのどがつまつて何とも云へませんでした。
すると博士はジヨバンニが挨拶に來たとでも思つたものですか、しばらくしげしげとジヨバンニを見てゐましたが、
「あなたはジヨバンニさんでしたね。どうも今晩はありがたう。」
と叮ねいに云ひました。
ジヨバンニは何も云へずにただおじぎをしました。
「あなたのお父さんはもう歸つてゐますか。」博士は堅く時計を握つたまま、また聞きました。
「いいえ。」
ジヨバンニはかすかに頭をふりました。
「どうしたのかなあ、ぼくには一昨日大へん元氣な便りがあつたんだが。今日あたりもう着くころなんだが船が遲れたんだな。ジヨバンニさん。あした放課後みなさんとうちへ遊びに來てくださいね。」
さう云ひながら博士はまた、川下の銀河のいつぱいにうつつた方へ、ぢつと眼を送りました。
ジヨバンニはもういろいろなことで胸がいつぱいで、なんにも云へずに、博士の前をはなれましたが、早くお母さんにお父さんの歸ることを知らせようと思ふと、牛乳を持つたまま、もう一目散に河原を街の方へ走りました。
けれどもまたその中にジヨバンニの目には涙が一杯になつて來ました。
街燈や飾り窓や色々のあかりがぼんやりと夢のやうに見えるだけになつて、いつたいじぶんがどこを走つてゐるのか、どこへ行くのかすらわからなくなつて走り續けました。
そしていつかひとりでにさつきの牧場のうしろを通つて、また丘の頂に來て天氣輪の柱や天の川をうるんだ目でぼんやり見つめながら坐つてしまひました。
汽車の音が遠くからきこえて來て、だんだん高くなりまた低くなつて行きました。
その音をきいてゐるうちに、汽車と同じ調子のセロのやうな聲でたれかが歌つてゐるやうな氣持ちがしてきました。
それはなつかしい星めぐりの歌を、くりかへしくりかへし歌つてゐるにちがひありませんでした。
ジヨバンニはそれにうつとりきき入つてをりました。
六 銀河ステーシヨン
そしてジヨバンニはすぐうしろの天氣輪の柱がいつかぼんやりした三角標の形になつて、しばらく螢のやうに、ぺかぺか消えたりともつたりしてゐるのを見ました。
それはだんだんはつきりして、とうとうりんとうごかないやうになり、濃い鋼青のそらにたちました。
いま新らしく灼いたばかりの青い鋼の板のやうな、そらの野原に、まつすぐにすきつと立つたのです。
するとどこかでふしぎな聲が、銀河ステーシヨン、銀河ステーシヨンと云つたかと思ふと、いきなり眼の前が、ぱつと明るくなつて億萬の螢烏賊の火を一ぺんに化石させて、そら中に沈めたといふ工合。
またダイアモンド會社で、ねだんがやすくならないために、わざと穫れないふりをしてかくしておいた金剛石を、誰かがいきなりひつくりかへしてばら撒いたといふ風に、眼の前がさあつと明るくなつて、ジヨバンニは思はず何べんも眼を擦つてしまひました。
氣がついてみると、さつきから、ごとごとごとごと、ジヨバンニの乘つてゐる小さな列車が走りつづけてゐたのでした。
ほんたうにジヨバンニは、夜の輕便鐵道の、小さな黄いろの電燈のならんだ車室に、窓から外を見ながら坐つてゐたのです。
車室の中は、青い天鵞絨を張つた腰掛けが、まるでがらあきで、向うの鼠いろのワニスを塗つた壁には、眞鍮の大きなぼたんが二つ光つてゐるのでした。
すぐ前の席に、ぬれたやうにまつ黒な上着を着たせいの高い子供が、窓から頭を出して外を見てゐるのに氣が付きました。
そしてそのこどもの肩のあたりが、どうも見たことのあるやうな氣がして、さう思ふと、もうどうしても誰だかわかりたくつてたまらなくなりました。
いきなりこつちも窓から顏を出さうとしたとき、俄かにその子供が頭を引つ込めて、こつちを見ました。
それはカムパネルラだつたのです。ジヨバンニが、
「カムパネルラ、きみは前からここに居たの。」
と云はうと思つたとき、カムパネルラが、
「みんなはね、ずゐぶん走つたけれども遲れてしまつたよ。ザネリもね、ずゐぶん走つたけれども追ひつかなかつた。」
と云ひました。
ジヨバンニは(さうだ、ぼくたちはいま、いつしよにさそつて出掛けたのだ。)とおもひながら、
「どこかで待つてゐようか。」
と云ひました。
するとカムパネルラは
「ザネリはもう歸つたよ。お父さんが迎ひにきたんだ。」
カムパネルラは、なぜかさう云ひながら、少し顏いろが青ざめて、どこか苦しいといふふうでした。
するとジヨバンニも、なんだかどこかに、何か忘れたものがあるといふやうな、をかしな氣持ちがしてだまつてしまひました。
ところがカムパネルラは、窓から外をのぞきながら、もうすつかり元氣が直つて、勢よく云ひました。
「ああしまつた。ぼく、水筒を忘れてきた。スケツチ帳も忘れてきた。けれど構はない。もうぢき白鳥の停車場だから。ぼく白鳥を見るなら、ほんたうにすきだ。川の遠くを飛んでゐたつて、ぼくはきつと見える。」
そして、カムパネルラは、圓い板のやうになつた地圖を、しきりにぐるぐるまはして見てゐました。
まつたく、その中に、白くあらはされた天の川の左の岸に沿つて一條の鐵道線路が、南へ南へとたどつて行くのでした。
そしてその地圖の立派なことは、夜のやうにまつ黒な盤の上に、一々の停車場の三角標、泉水や森が、青や橙や緑や、うつくしい光でちりばめられてありました。
ジヨバンニはなんだかその地圖をどこかで見たやうにおもひました。
「この地圖はどこで買つたの。黒曜石でできてるねえ。」
ジヨバンニが云ひました。
「銀河ステーシヨンで、もらつたんだ。君もらはなかつたの。」
「ああ、ぼく銀河ステーシヨンを通つたらうか。いまぼくたちの居るとこ、ここだらう。」
ジヨバンニは、白鳥と書いてある停車場のしるしの、すぐ北を指しました。
「さうだ。おや、あの河原は月夜だらうか。」
そつちを見ますと、青白く光る銀河の岸に、銀いろの空のすすきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波を立てているのでした。
「月夜でないよ。銀河だから光るんだよ。」
ジヨバンニは云ひながら、まるではね上りたいくらゐ愉快になつて、足をこつこつ鳴らし、窓から顏を出して、高く高く星めぐりの口笛を吹きながら、一生けん命延びあがつて、その天の川の水を、見きはめようとしましたが、はじめはどうしてもそれがはつきりしませんでした。
けれどもだんだん氣をつけて見ると、そのきれいな水は、ガラスよりも水素よりもすきとほつて、ときどき眼の加減か、ちらちら紫いろのこまかな波をたてたり、虹のやうにぎらつと光つたりしながら、聲もなくどんどん流れて行き、野原にはあつちにもこつちにも、燐光の三角標が、うつくしく立つてゐたのです。
遠いものは小さく、近いものは大きく、遠いものは橙や黄いろではつきりし、近いものは青白く少しかすんで、或ひは三角形、或ひは四邊形、あるひは雷や鎖の形、さまざまにならんで、野原いつぱい光つてゐるのでした。
ジヨバンニは、まるでどきどきして、頭をやけに振りました。
するとほんたうに、そのきれいな野原中の青や橙や、いろいろかがやく三角標も、てんでに息をつくようにちらちらゆれたり顫へたりしました。
「ぼくはもう、すつかり天の野原に來た。」
ジヨバンニは云ひました。
「それに、この汽車石炭をたいてゐないねえ。」
ジヨバンニが左手をつき出して窓から前の方を見ながら云ひました。
「アルコールか電氣だらう。」
カムパネルラが云ひました。
するとちやうど、それに返事をするやうに、どこか遠くの遠くのもやの中から、セロのやうなごうごうした聲がきこえて來ました。
「ここの汽車は、ステイームや電氣でうごいてゐない。ただうごくやうにきまつてゐるからうごいてゐるのだ。ごとごと音をたててゐると、さうおまへたちは思つてゐるけれども、それはいままで音をたてる汽車にばかりなれてゐるためなのだ。」
「あの聲、ぼくなんべんもどこかできいた。」
「ぼくだつて、林の中や川で、何べんも聞いた。」
ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、そらのすすきの風にひるがへる中を、天の川の水や、三角標の青じろい微光の中を、どこまでもどこまでも走つて行くのでした。
「あありんだうの花が咲いてゐる。もうすつかり秋だねえ。」
カムパネルラが窓の外を指さして云ひました。
線路のへりになつたみじかい芝草の中に、月長石ででも刻まれたやうな、すばらしい紫のりんだうの花が咲いてゐました。
「ぼく、飛び下りて、あいつをとつて、また飛び乘つてみせようか。」ジヨバンニは胸を躍らせて云ひました。
「もうだめだ。あんなにうしろへ行つてしまつたから。」
カムパネルラが、さう云つてしまふかしまはないうちに次のりんだうの花がいつぱいに光つて過ぎて行きました。
と思つたら、もう次から次から、たくさんのきいろな底をもつたりんだうの花のコツプが、湧くやうに、雨のやうに、眼の前を通り、三角標の列は、けむるやうに燃えるやうに、いよいよ光つて立つたのです。
七 北十字とプリオシン海岸
「おつかさんは、ぼくをゆるして下さるだらうか。」
いきなり、カムパネルラが、思ひ切つたといふやうに、少しどもりながら、急きこんで云ひました。
ジヨバンニは、
(ああ、そうだ、ぼくのおつかさんは、あの遠い、一つのちりのやうに見える橙いろの三角標のあたりにいらつしやつて、いまぼくのことを考へてゐるんだつた。)
と思ひながらぼんやりして、だまつてゐました。
「ぼくはおつかさんが、ほんたうに幸ひになるなら、どんなことでもする。けれどもいつたいどんなことが、おつかさんのいちばんの幸ひなんだらう。」
カムパネルラは、なんだか泣きだしたいのを、一生けん命こらへてゐるやうでした。
「きみのおつかさんは、なんにもひどいことないぢやないの。」
ジヨバンニはびつくりして叫びました。
「ぼくわからない。けれども、誰だつて、ほんたうにいいことをしたら、いちばん幸ひなんだね。だから、おつかさんは、ぼくをゆるして下さると思ふ。」
カムパネルラは、なにかほんたうに決心してゐるやうに見えました。
俄かに、車のなかが、ぱつと白く明るくなりました。
見ると、もうじつに、金剛石や草の露やあらゆる立派さをあつめたやうな、きらびやかな銀河の河床の上を、水は聲もなくかたちもなく流れ、その流れのまん中に、ぼうつと青白く後光の射した一つの島が見えるのでした。
その島の平らないただきに、立派な眼もさめるやうな、白い十字架がたつて、それはもう、凍つた北極の雲で鑄たといつたらいいか、すきつとした金いろの圓光をいただいて、しづかに永久に立つてゐるのでした。
「ハルレヤ、ハルレヤ。」
前からもうしろからも聲が起りました。
ふりかへつて見ると、車室の中の旅人たちは、みなまつすぐにきもののひだを垂れ、黒いバイブルを胸にあてたり、水晶の數珠をかけたり、どの人もつつましく指を組み合せて、そつちに祈つてゐるのでした。
思はず二人もまつすぐに立ちあがりました。
カムパネルラの頬は、まるで熟した苹果のあかしのやうにうつくしくかがやいて見えました。
そして島と十字架とは、だんだんうしろの方へうつつて行きました。
向う岸も、青じろくぽうつと光つてけむり、時々、やつぱりすすきが風にひるがへるらしく、さつとその銀いろがけむつて、息でもかけたやうに見え、また、たくさんのりんだうの花が、草をかくれたり出たりするのは、やさしい狐火のやうに思はれました。
それもほんのちよつとの間、川と汽車との間は、すすきの列でさへぎられ、白鳥の島は、二度ばかりうしろの方に見えましたが、ぢきもうずうつと遠く小さく繪のやうになつてしまひ、またすすきがざわざわ鳴つて、とうとうすつかり見えなくなつてしまひました。
ジヨバンニのうしろには、いつから乘つてゐたのか、せいの高い、黒いかつぎをしたカトリツク風の尼さんが、まん圓な緑の瞳を、ぢつとまつすぐに落して、まだ何かことばか聲かが、そつちから傳はつて來るのを愼しんで聞いてゐるといふやうに見えました。
旅人たちはしづかに席に戻り、二人も胸いつぱいのかなしみに似た新らしい氣持ちを、何氣なくちがつた言葉で、そつと話し合つたのです。
「もうぢき白鳥の停車場だねえ。」
「ああ、十一時かつきりには着くんだよ。」
早くも、シグナルの緑の燈と、ぼんやり白い柱とが、ちらつと窓のそとを過ぎ、それから硫黄のほのほのやうなくらいぼんやりした轉轍機の前のあかりが窓の下を通り、汽車はだんだんゆるやかになつて、間もなくプラツトホームの一列の電燈が、うつくしく規則正しくあらはれ、それがだんだん大きくなつてひろがつて、二人は丁度白鳥停車場の、大きな時計の前に來てとまりました。
さわやかな秋の時計の盤面には、青く灼かれたはがねの二本の針が、くつきり十一時を指しました。みんなは、一ぺんに下りて、車室の中はがらんとなつてしまひました。
〔二十分停車〕と時計の下に書いてありました。
「ぼくたちも降りて見ようか。」
ジヨバンニが云ひました。
「降りよう。」
二人は一度にはねあがつてドアを飛び出して改札口へかけて行きました。
ところが改札口には、明るい紫がかつた電燈が一つ點いてゐるばかり、誰も居ませんでした。
そこら中を見ても、驛長や赤帽らしい人の影もなかつたのです。
二人は、停車場の前の、水晶細工のやうに見える銀杏の木に圍まれた小さな廣場に出ました。
そこから幅の廣いみちが、まつすぐに銀河の青光の中へ通つてゐました。
さきに降りた人たちは、もうどこへ行つたか一人も見えませんでした。
二人がその白い道を、肩をならべて行きますと、二人の影は、ちやうど四方に窓のある室の中の、二本の柱の影のやうに、また二つの車輪の幅のやうに幾本も幾本も四方へ出るのでした。
そして間もなく、あの汽車から見えたきれいな河原に來ました。
カムパネルラは、そのきれいな砂を一つまみ、掌にひろげ、指できしきしさせながら、夢のやうに云つてゐるのでした。
「この砂はみんな水晶だ。中で小さな火が燃えてゐる。」
「さうだ。」
どこでぼくは、そんなこと習つたらうと思ひながら、ジヨバンニもぼんやり答へてゐました。
河原の礫は、みんなすきとほつて、たしかに水晶や黄玉や、またくしやくしやの皺曲をあらはしたのや、また稜から霧のやうな青白い光を出す鋼玉やらでした。
ジヨバンニは、走つてその渚に行つて、水に手をひたしました。
けれどもあやしいその銀河の水は、水素よりももつとすきとほつてゐたのです。
それでもたしかに流れてゐたことは、二人の手首の、水にひたしたところが、少し水銀いろに浮いたやうに見え、その手首にぶつつかつてできた波は、うつくしい燐光をあげて、ちらちらと燃えるやうに見えたのでもわかりました。
川上の方を見ると、すすきのいつぱいに生えている崖の下に、白い岩が、まるで運動場のやうに平らに川に沿つて出てゐるのでした。
そこに小さな五六人の人かげが、何か掘り出すか埋めるかしてゐるらしく、立つたり屈んだり、時々なにかの道具が、ピカツと光つたりしました。
「行つてみよう。」
二人は、まるで一度に叫んで、そつちの方へ走りました。
その白い岩になつた處の入口に〔プリオシン海岸〕といふ、瀬戸物のつるつるした標札が立つて、向うの渚には、ところどころ細い鐵の欄干も植ゑられ、木製のきれいなベンチも置いてありました。
「おや、變なものがあるよ。」
カムパネルラが、不思議さうに立ちどまつて、岩から黒い細長いさきの尖つたくるみの實のやうなものをひろひました。
「くるみの實だよ。そら、澤山ある。流れて來たんぢやない。岩の中に入つてるんだ。」
「大きいね、このくるみ、倍あるね。こいつはすこしもいたんでない。」
「早くあすこへ行つて見よう。きつと何か掘つてるから。」
二人は、ぎざぎざの黒いくるみの實を持ちながら、またさつきの方へ近よつて行きました。
左手の渚には、波がやさしい稻妻のやうに燃えて寄せ、右手の崖には、いちめん銀や貝殼でこさへたやうなすすきの穗がゆれたのです。
だんだん近付いて見ると、一人のせいの高い、ひどい近眼鏡をかけて長靴をはいた學者らしい人が、手帳に何かせはしさうに書きつけながら、つるはしをふりあげたり、スコツプをつかつたりしてゐる、三人の助手らしい人たちに夢中でいろいろ指圖をしてゐました。
「そこのその突起を壞さないやうに、スコツプを使ひたまへ。スコツプを。おつと、も少し遠くから掘つて。いけない、いけない。なぜそんな亂暴をするんだ。」
見ると、その白い柔らかな岩の中から、大きな大きな青じろい獸の骨が、横に倒れて潰れたといふ風になつて、半分以上掘り出されてゐました。
そして氣をつけて見ると、そこらには、蹄の二つある足跡のついた岩が、四角に十ばかり、きれいに切り取られて番號がつけられてありました。
「君たちは參觀かね。」
その大學士らしい人が、眼鏡をきらつとさせて、こつちを見て話しかけました。
「くるみが澤山あつたらう。それはまあ、ざつと百二十萬年ぐらゐ前のくるみだよ。
ごく新らしい方さ。
ここは百二十萬年前、第三紀のあとのころは海岸でね、この下からは貝がらも出る。いま川の流れてゐるとこに、そつくり鹽水が寄せたり引いたりもしてゐたのだ。
このけものかね、これはボスといつてね、おいおい、そこ、つるはしはよしたまへ。
ていねいに鑿でやつてくれたまへ。ボスといつてね、いまの牛の先祖で、昔はたくさん居たのさ。」
「標本にするんですか。」
「いや、證明するに要るんだ。
ぼくらからみると、ここは厚い立派な地層で、百二十萬年ぐらゐ前にできたといふ證據もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがつたやつからみてもやつぱりこんな地層に見えるかどうか、あるひは風か水か、がらんとした空かに見えやしないかといふことなのだ。わかつたかい。
けれども、おいおい、そこもスコツプではいけない。そのすぐ下に肋骨が埋もれてる筈ぢやないか。」
大學士はあわてて走つて行きました。
「もう時間だよ。行かう。」
カムパネルラが地圖と腕時計とをくらべながら云ひました。
「ああ、ではわたくしどもは失禮いたします。」
ジヨバンニは、ていねいに大學士におじぎしました。
「さうですか。いや、さよなら。」
大學士は、また忙がしさうに、あちこち歩きまはつて監督をはじめました。
二人は、その白い岩の上を、一生けん命汽車におくれないやうに走りました。
そしてほんたうに、風のやうに走れたのです。息も切れず膝もあつくなりませんでした。
こんなにしてかけるなら、もう世界中だつてかけれると、ジヨバンニは思ひました。
そして二人は、前のあの河原を通り、改札口の電燈がだんだん大きくなつて、間もなく二人は、もとの車室の席に座つていま行つて來た方を窓から見てゐました。
八 鳥を捕る人
「ここへかけてもようございますか。」
がさがさした、けれども親切さうな大人の聲が、二人のうしろで聞えました。
それは、茶いろの少しぼろぼろの外套を着て、白い布でつつんだ荷物を、二つに分けて肩にかけた赤髯のせなかのかがんだ人でした。
「ええ、いいんです。」
ジヨバンニは、少し肩をすぼめて挨拶しました。
その人は、ひげの中でかすかに微笑ひながら荷物をゆつくり網棚にのせました。
ジヨバンニは、なにか大へんさびしいやうなかなしいやうな氣がして、だまつて正面の時計を見てゐましたら、ずうつと前の方で硝子の笛のやうなものが鳴りました。
汽車はもう、しづかにうごいてゐたのです。
カムパネルラは、車室の天井を、あちこち見てゐました。
その一つのあかりに黒い甲蟲がとまつて、その影が大きく天井にうつつてゐたのです。
赤ひげの人は、なにかなつかしさうにわらひながら、ジヨバンニやカムパネルラのやうすを見てゐました。
汽車はもうだんだん早くなつて、すすきと川と、かはるがはる窓の外から光りました。
赤ひげの人が、少しおづおづしながら、二人に訊きました。
「あなた方は、どちらへいらつしやるんですか。」
「どこまでも行くんです。」
ジヨバンニは、少しきまり惡さうに答へました。
「それはいいね。この汽車は、じつさい、どこまででも行きますぜ。」
「あなたはどこへ行くんです。」
カムパネルラが、いきなり、喧嘩のやうにたづねましたので、ジヨバンニは思はずわらひました。
すると、向うの席に居た、尖つた帽子をかぶり、大きな鍵を腰に下げた人も、ちらつとこつちを見てわらひましたので、カムパネルラも、つい顏を赤くして笑ひだしてしまひました。
ところがその人は別に怒つたでもなく、頬をぴくぴくしながら返事しました。
「わつしはすぐそこで降ります。わつしは、鳥をつかまへる商賣でね。」
「何鳥ですか。」
「鶴や雁です。さぎも白鳥もです。」
「鶴はたくさんゐますか。」
「居ますとも、さつきから鳴いてまさあ。聞かなかつたのですか。」
「いいえ。」
「いまでも聞えるぢやありませんか。そら、耳をすまして聽いてごらんなさい。」
二人は眼を擧げ、耳をすましました。
ごとごと鳴る汽車のひびきと、すすきの風との間から、ころんころんと水の湧くやうな音が聞えて來るのでした。
「鶴、どうしてとるんですか。」
「鶴ですか、それとも鷺ですか。」
「鷺です。」
ジヨバンニは、どつちでもいいと思ひながら答へました。
「そいつはな、雜作ない。
さぎといふものは、みんな天の川の砂が凝つて、ぼうつとできるもんですからね、そして始終川へ歸りますからね。
川原で待つてゐて、鷺がみんな、脚をかういふ風にして降りてくるとこを、そいつが地べたへつくかつかないうちに、ぴたつと押へちまふんです。
するともう鷺は、かたまつて安心して死んぢまひます。
あとはもう、わかり切つてまさあ、押し葉にするだけです。」
「鷺を押し葉にするんですか。標本ですか。」
「標本ぢやありません。みんなたべるぢやありませんか。」
「をかしいねえ。」
カムパネルラが首をかしげました。
「おかしいも不審もありませんや。そら。」
その男は立つて、網棚から包みをおろして、手ばやくくるくると解きました。
「さあ、ごらんなさい。いまとつて來たばかりです。」
「ほんたうに鷺だねえ。」
二人は思はず叫びました。まつ白な、あのさつきの北の十字架のやうに光る鷺のからだが十ばかり、少しひらべつたくなつて、黒い脚をちぢめて、浮彫のやうにならんでゐたのです。
「眼をつぶつてるね。」
カムパネルラは、指でそつと、鷺の三日月がたの白い瞑つた眼にさはりました。頭の上の槍のやうな白い毛もちやんとついてゐました。
「ね、さうでせう。」
鳥捕りは風呂敷を重ねて、またくるくると包んで紐でくくりました。
誰がいつたいここらで鷺なんぞ喰べるだらうとジヨバンニは思ひながら訊きました。
「鷺はおいしいんですか。」
「ええ、毎日註文があります。しかし雁の方が、もつと賣れます。雁の方がずつと柄がいいし、第一手數がありませんからな。そら。」
鳥捕りは、また別の方の包みを解きました。すると黄と青じろとまだらになつて、なにかのあかりのやうにひかる雁が、ちやうどさつきの鷺のやうに、くちばしを揃へて、少し扁べつたくなつてならんでゐました。
「こつちはすぐ喰べられます。どうです、少しおあがりなさい。」
鳥捕りは、黄いろな雁の足を、輕くひつぱりました。
するとそれは、チヨコレートででもできてゐるやうに、すつときれいにはなれました。
「どうです。すこしたべてごらんなさい。」
鳥捕りは、それを二つにちぎつてわたしました。
ジヨバンニは、ちよつと喰べてみて、
(なんだ、やつぱりこいつはお菓子だ。チヨコレートよりも、もつとおいしいけれども、こんな雁が飛んでゐるもんか。この男は、どこかそこらの野原の菓子屋だ。けれどもぼくは、このひとをばかにしながら、この人のお菓子をたべてゐるのは、大へん氣の毒だ。)
と思ひながら、やつぱりぽくぽくそれをたべてゐました。
「も少しおあがりなさい。」
鳥捕りがまた包みを出しました。
ジヨバンニは、もつとたべたかつたのですけれども、
「ええ、ありがたう。」
と云つて遠慮しましたら、鳥捕りは、こんどは向うの席の、鍵をもつた人に出しました。
「いや、商賣ものを貰つちやすみませんな。」
その人は、帽子をとりました。
「いいえ、どういたしまして、どうです。今年の渡り鳥の景氣は。」
「いや、すてきなもんですよ。一昨日の第二限ころなんか、なぜ燈臺の燈を、規則以外に暗くさせるかつて、あつちからもこつちからも、電話で故障が來ましたが、なあに、こつちがやるんぢやなくて、渡り鳥どもが、まつ黒にかたまつて、あかしの前を通るのですから仕方ありませんや、わたしあ、べらぼうめ、そんな苦情は、おれのとこへ持つて來たつて仕方がねえや、ばさばさのマントを着て脚と口との途方もなく細い大將へやれつて、斯う云つてやりましたがね、はつは。」
すすきがなくなつたために、向うの野原から、ぱつとあかりが射して來ました。
「鷺の方はなぜ手數なんですか。」
カムパネルラは、さつきから、訊かうと思つてゐたのです。
「それはね、鷺を喰べるには、」
鳥捕りは、こつちに向き直りました。
「天の川の水あかりに、十日もつるして置くかね、さうでなけあ、砂に三四日うづめなけあいけないんだ。さうすると、水銀がみんな蒸發して、喰べられるやうになるよ。」
「こいつは鳥ぢやない。ただのお菓子でせう。」
やつぱりおなじことを考へてゐたとみえて、カムパネルラが、思ひ切つたといふやうに尋ねました。
鳥捕りは、何か大へんあわてた風で、
「さうさう、ここで降りなけあ。」
と云ひながら、立つて荷物をとつたと思ふと、もう見えなくなつてゐました。
「どこへ行つたんだらう。」
二人は顏を見合せましたら、燈臺守はにやにや笑つて、少し伸びあがるやうにしながら、二人の横の窓の外をのぞきました。
二人もそつちを見ましたら、たつたいまの鳥捕りが、黄いろと青じろの、うつくしい燐光を出す、いちめんのかはらははこぐさの上に立つて、まじめな顏をして兩手をひろげて、ぢつとそらを見てゐたのです。
「あすこへ行つてる。
ずゐぶん奇體だねえ。
きつとまた鳥をつかまへるとこだねえ。汽車が走つて行かないうちに、早く鳥がおりるといいな。」
と云つた途端、がらんとした桔梗いろの空から、さつき見たやうな鷺が、まるで雪の降るやうにぎやあぎやあ叫びながら、いつぱいに舞ひおりて來ました。
するとあの鳥捕りは、すつかり註文通りだといふやうにほくほくして、兩足をかつきり六十度に開いて立つて、鷺のちぢめて降りて來る黒い脚を兩手で片つ端から押へて、布の袋の中に入れるのでした。
すると鷺は螢のやうに、袋の中でしばらく、青くぺかぺか光つたり消えたりしてゐましたが、おしまひにはとうとう、みんなぼんやり白くなつて、眼をつぶるのでした。
ところが、つかまへられる鳥よりは、つかまへられないで無事に天の川の砂の上に降りるものの方が多かつたのです。
それは見てゐると、足が砂へつくや否や、まるで雪の融けるやうに、縮まつて扁べつたくなつて、間もなく熔鑛爐から出た銅の汁のやうに、砂や砂利の上にひろがり、しばらくは鳥の形が、砂についてゐるのでしたが、それも二三度明るくなつたり暗くなつたりしてゐるうちに、もうすつかりまはりと同じいろになつてしまふのでした。
鳥捕りは二十疋ばかり、袋に入れてしまふと、急に兩手をあげて、兵隊が鐵砲彈にあたつて、死ぬときのやうな形をしました。
と思つたら、もうそこに鳥捕りの形はなくなつて、却つて、
「ああせいせいした。どうもからだに丁度合ふほど稼いでゐるくらゐ、いいことはありませんな。」
といふききおぼえのある聲が、ジヨバンニの隣りにしました。
見ると鳥捕りは、もうそこでとつて來た鷺を、きちんとそろへて、一つづつ重ね直してゐるのでした。
「どうしてあすこから、いつぺんにここへ來たんですか。」
ジヨバンニがなんだかあたりまへのやうな、あたりまへでないやうな、をかしな氣がして問ひました。
「どうしてつて、來ようとしたから來たんです。ぜんたいあなた方は、どちらからおいでですか。」
ジヨバンニは、すぐ返事しようと思ひましたけれども、さあ、ぜんたいどこから來たのか、もうどうしても考へつきませんでした。カムパネルラも、顏をまつ赤にして何か思ひ出さうとしてゐるのでした。
「ああ、遠くからですね。」
鳥捕りは、わかつたというやうに雜作なくうなづきました。
おしまい
→ 銀河鉄道の夜・後編へ
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