5月9日の百物語
キンモクセイの妖怪
むかし、一人暮らしの侍の屋敷に、知り合いの老人がたずねてきました。
二人が障子(しょうじ)を開けて、月をながめながら酒を酌み交わしていると、時々キンモクセイの甘い香りが風に乗って流れてきます。
「ああ、何て良い香りだ」
老人がそう言って庭の方をながめると、大きなキンモクセイの木のそばに、白い着物を着た若い女が立っていました。
青白い顔をした若い女は、じっとこちらを見ています。
(おかしいな。少し酔っ払ったかな?)
老人が目をこすって若い女をさらに良く見ようとした時、その若い女がいきなり風の様に飛んで来て、老人の前にぬうっと顔を突き出しました。
「うひゃ!」
老人は思わず身をのけぞりましたが、隣にいた侍は少しも驚かずに言いました。
「こら! 客人の前で失礼な。さっさと消えないと、たたき切るぞ」
そのとたん、若い女はスーッと離れて行き、キンモクセイの木のかげに消えました。
老人はホッと胸をなでおろすと、侍にたずねました。
「さっきのあれは、何者です?」
「さあ、何者でしょうか? よくは知りませんが、キンモクセイの花が咲く頃になると、毎晩の様にああやって出て来ます」
「毎晩? ・・・失礼だが、怖くはないのですか?」
「悪さはしないので、別に何ともありませんよ。さあ、それよりも、どんどんやってください」
侍は老人のさかずきに、新しいお酒をつぎました。
老人は気を取り直してお酒を飲み始めましたが、それからしばらくすると、また若い女が出て来て、今度は縁側の前を行ったり来たりする様になりました。
若い女は歩くでもなく、氷の上を滑る様にすすーっと動き回るのです。
老人は手が震えてお酒を飲むどころではなく、青い顔で若い女を見ていました。
すると若い女は老人をからかうかの様に急に立ち止まると、老人の前に顔を突き出してニヤリと笑いました。
「ひぇー!」
老人はびっくりして、持っていたさかづきを落としてしまいました。
「消えろというのに、まだわからんのか!」
侍は刀を抜くと若い女に切りつけましたが、若い女はフワリと身をかわすと、ゆっくりと逃げて行きます。
「待て!」
侍は裸足のまま庭へ飛び降りると若い女を追いかけましたが、若い女は『早くおいで』と言わんばかりにニヤリと笑い、そのままキンモクセイの木のかげに消えてしまいました。
侍は若い女が消えた辺りをしばらく調べていましたが、やがてガッカリした顔で戻って来ました。
「たたき切るつもりでしたが、見失いました。全く、しようのないやつで」
「いくら何でも、殺すのはかわいそうですよ」
「とんでもない。
見ての通り、あれは化け物ですよ。
あいつは戸が開いていれば部屋の中にも入って来るし、油断すると寝ている布団の上に座るしまつ」
「なんと! さっきも聞いたか、お前さんは怖くはないのですか?」
「まあ、確かに最初は怖かったですよ。
しかし、急に現れる以外に悪さをするわけでもないし、もう、なれっこになりました。
そうそう、刀で切りつけても手ごたえはありませんが、切りつけるとしばらくは出て来ません」
話を聞いた老人はここにいるのが怖くなり、お酒のお礼を言うとすぐに屋敷を出て行きました。
屋敷を出た老人が屋敷を振り返ると、塀(へい)の上までキンモクセイの木が伸びていて、その花の甘い香りがふんわりと流れてきました。
「キンモクセイの妖怪か。いかに悪さはしないとはいえ、よくこんな屋敷に住めるものだ」
その時、ポキッ、ポキッと、枝を折る音がしました。
老人が塀の破れめから恐々中をのぞいてみると、さっきの若い女が木に登って、さかんに枝を折っています。
若い女は老人に気づくと、またもニヤリと笑いました。
「ひぇー!」
老人は震え上がると、あとも見ずにかけだしました。
それから数日後、老人のところに、あの侍が死んだとの知らせがありました。
侍の屋敷にかけつけた老人がふと庭のキンモクセイの木を見ると、あの若い女がやったのか、キンモクセイの枝が全て折れていて、木は枯れていました。
しかしキンモクセイの木は枯れているのに、侍の屋敷はキンモクセイの甘ずっぱい香りがいつまでもたちこめていたそうです。
おしまい