8月19日の百物語
黒雲
むかしむかし、一そうの船が長い航海(こうかい)も終えて、間もなく港に着くという頃、晴れ渡っていた青空に、ポツンと点の様な黒雲が現れました。
黒雲はすーっと船に近づき、近づくにつれてだんだんと大きくふくれあがってきました。
そして船の真上まで来た時には日の光は全くさえぎられて、辺りは不気味(ぶきみ)な暗さに包まれました。
その時、突然女の悲鳴が響きました。
「あーれー」
船乗りたちは、思わず辺りを見回しました。
「どこだ? この船には、女は乗っておらんが」
「上から聞こえたぞ。すると声は、雲の中からか?」
船乗りたちは甲板(かんぱん)に集まると、頭上にうずまく気味の悪い黒雲を見つめました。
黒雲はグルグルと渦を巻いて、だんだんと船を押しつぶす様に低く降りてきました。
その時、船乗りの何人かが叫びました。
「うわーっ」
何と渦巻く黒雲の中から、人間の足がたれ下がってきたのです。
「うぬっ!」
船頭は気丈(きじょう)にも、その足に飛びついて黒雲から引きずりおろしました。
見るとそれは、老婆の死体でした。
「これは、大変な物が降って来たわい」
みんなが大騒ぎしていると、いつの間にやら黒雲は消え失せて、空には何事もなかった様に青空が広がりました。
「とにかく、港に行こうか」
船乗りたちが持ち場に戻ろうとすると、近くの浜辺に大勢の人が集まっていて、こっちの船を指差しながら騒いでいます。
「どうやら浜の騒ぎは、この老婆の死体とは関係がありそうだな」
船頭は小船をおろすと、船乗りの一人に浜の様子を見に行かせました。
しばらくすると、浜へ行った船乗りは一人の男を乗せて戻ってきました。
その男は船に上がって老婆の死体をみると、船頭に頭を下げました。
「お恥ずかしい事でございますが、これは、わたくしの母でございます」
「あなたの母? よければ、事情を話してくれませんか?」
船頭が言うと、男は涙をこぼしながら話し出しました。
「お聞き下さいまし。
わたしの母は、金貸しをいたしておりました。
始めうちは近所の方に、ほんの小銭を用立てる程度でございましたが、だんだん欲が出てまいりまして、高い利息で貸しては無理な取立てを行い、この頃は人さまからは『鬼ババ』とまで言われるありさま。
今日も借金のかたに、年瑞(としは)もいかぬ娘を連れ出して、人買いに売り渡そうとしたのでございます。
ところが突然空から黒雲が降りてきて、あっという間に母をさらっていきました。
これも、悪業(あくぎょう)の報いなのでございましょう」
男は話し終わると、泣きながら老婆の死体を引き取っていきました。
おしまい