9月13日の百物語
雄ジカの目
むかしむかし、ある山里に一人の侍が母親と召使いの三人で、わびしく暮らしていました。
その侍は狩り好きで、毎日の様に弓矢を持って山に出かけては、ウサギやイノシシなどの仕留めた獲物を母親に得意気に見せるのでした。
しかし母親は、狩りばかりしている息子をいましめる様に言います。
「お前は、生き物を殺し過ぎですよ。
山の動物の命も人の命も、同じ命です。
命をそまつにすると、いつかむくいを受けますよ」
しかし息子は母親の言葉を気にも止めず、また山へと出かけて行くのでした。
やがて母親は息子をいさめる気力もなくなり、病の床につく様になってしまいました。
さて、母親が寝ている部屋には古い床の間があって、先祖代々伝わっている掛け軸が一本かかっています。
これは都にいたご先祖さまが偉いお方から頂いた物で、一頭の雄(おす)ジカが力強い筆で見事に描かれています。
掛け軸の雄ジカは優しさと怪しさの混じった目でこちらを見つめており、まるで生きたシカの目をはめ込んでいるかの様に見えます。
売ればかなりの金額になるので、息子はこの掛け軸を売りたいと思っていますが、母親はこの雄ジカの掛け軸をとても気に入っており、息子がいくら言っても決して手放そうとはしませんでした。
ある日の事、息子はいつもの様に山へ出かけましたが、その日は山中を駆け巡っても小鳥一匹見つかりません。
「なんと言う日だ。まるで山から生き物が、消えてしまったようだ」
日が暮れかけて、辺りが薄暗くなってきました。
「仕方ない、今日は帰ると・・・」
その時、遠くの方にキラキラと光る物が見えました。
「暗くてよく見えぬが、あれはシカの目が光っているのか?」
息子は矢を弓につがえると、キラキラと光る物目掛けて矢を放ちました。
ビューン!
「よし、仕留めた! 確かに手ごたえはあった!」
息子はすぐに確かめたいと思いましたが、もう辺りは真っ暗なので危険です。
「場所は覚えた。また明日にしよう」
山から帰って来た息子が家に入ると、いきなり召使いの娘が走り寄って来て言いました。
「大変です! 奥さまが、奥さまがお苦しみです。早くお部屋へ」
「なにっ!」
息子が急いで母親の寝ている部屋に行くと、中からただならぬうめき声が聞こえてきます。
「母上! 母上! お気を確かに!」
息子がふすまを開けて部屋に入ると、不思議な事に母親の姿はなく、ただ寝巻きだけが脱ぎ捨ててあります。
「これは、・・・はっ!」
息子は、ふと床の間の掛け軸を見て、ぶるぶると身震いをしました。
何と掛け軸の雄ジカの目に、自分が放った矢が突き刺さっているではありませんか。
そして矢の突き刺さった目から、まっ赤な血が吹きこぼれていたのです。
「母上! 母上! 誰かおらぬか! 誰か!」
息子は家中を夢中で探し回りましたが、母親の姿も、先ほどまでいた召使いの娘の姿も見つける事は出来ませんでした。
その時、息子の脳裏に母親の言葉が思い浮かびました。
命をそまつにすると、いつかむくいを受けると。
「・・・これが、これが生き物の命をそまつにした、むくいなのか」
侍はただ一人、魂が抜けた様に立ち尽くすばかりでした。
おしまい