2012年 5月25日の新作昔話
名もなき恋の物語
龍之進のオリジナル童話
昔々、とある街に、ポールという名の男が住んでいました。ポールには、同じ街に住むアンナという名の恋人がいました。
ある日の夕暮れ、ポールは静かな店で、お茶を飲みながらアンナと話をしていました。
「僕たちが出会ってから、明日でちょうど3年になるね」
「ええ…そうね」
「覚えているかい?初めて会った日のこと」
「覚えているわ。私が落としたスカーフを、あなたが拾ってくれて…」
「走る君を追いかけて、広場の噴水のところで追いついた」
二人はちょっと顔を見合わせ、微笑み合いました。
「あなたがスカーフを渡してくれたちょうどその時、5時の鐘が鳴ったのよね」
「ああ。澄んだ鐘の音を聞いているうち、何だか不思議な気持ちになったのを覚えているよ」
ポールはそこで、カップのお茶を一口飲み、ふうっと息をつきました。
「ねえ…アンナ」
「何?」
「明日の、夕方5時に…あの噴水のところに来てくれないか」
アンナは、ポールの顔をじっと見つめました。
「僕たちが出会った日、僕たちが出会った時刻、僕たちが出会った場所で…君に、言いたいことがあるんだ」
まるで太陽の光を受けて月が輝くように、アンナの頬がぽっと染まりました。
「ええ…分かったわ。必ず、行く」
夕日が沈んで、空には星が瞬き始めました。二人は店を出、夢のような星明かりの中を歩きました。ポールはまずアンナを家に送り届け、おやすみを言って自分の家に帰っていきました。ずっと手を降り続けているアンナの方を、時々振り返りながら…。
次の日の夕方。ポールは随分と早く家を出て、噴水のある広場に行きました。道行く人々を眺めながら、ポールはアンナが来るのを待ちました。
4時30分になり、4時40分になりました。ポールは手にした何かをぎゅっと握りしめました。
4時50分になり、5時になりました。アンナはまだ来ません。
「おや…どうしたんだろう」
ポールはきょろきょろと辺りを見回しました。
5時10分になり、5時20分になりました。ポールはだんだんと不安になってきました。
「もしかして、何かあったのかな…」
5時30分になり、5時40分になり…5時50分になり、6時になっても、アンナは来ませんでした。
「おかしい…いくらなんでも遅すぎる」
ポールは暗くなってきた広場を出て、アンナの家に向かいました。息を切らせて玄関の扉を 叩いたポールを、アンナの両親が驚きながら出迎えてくれました。
「まあ…一体どうしたの。アンナは?一緒じゃないの?」
「あ、あの…アンナは、ここには…」
「あの子はとっくに家を出たよ。広場の噴水のところで君と会うんだと言ってね」
「そ…そんな」
ポールはがっくりと膝をつきました。
「おい、何があったんだ?」
「ポールさん…?」
アンナの両親は、不安げな表情でポールを見つめます。
「アンナが…アンナが…」
ポールから話を聞いたアンナの両親は、真っ青になりました。ポールは2人と一緒に家を出、アンナの名を呼びながら街中を探し回りました。
しかし、アンナがポールたちの前に姿を現すことはなく、その行方を知る人もいませんでした。
「アンナ…」
ポールは、ずっと手に握っていたものを見つめました。
それは、アンナのために買った首飾りでした。これを、アンナに渡すはずだった。
そして、そして…。
帰っていくポールの背中にずっと手を振り続けていたアンナは、今日、心を踊らせて広場に向かったはずのアンナは…ふっつりと姿を消してしまったのです。
次の日も、そのまた次の日も、ポールは寝る間も惜しんでアンナを探し続けました。
しかし、どこを探しても手がかり一つ見つからないのです。
日が昇って沈み、月が昇って沈み、また日が昇って沈んでも、アンナは見つかりませんでした。
花が散って葉が生い茂り蝉が歌い、木の葉が色づいて舞い赤とんぼが飛び、木枯らしが吹いて木々が枯れ果て雪が降り始めても、アンナは見つかりませんでした。
それでもポールは諦めませんでした。
人を捕まえては話を聞き、森へ、湖へ、山へ、ずっと遠くの街へ…探して、探して、探して、探し続けました。
アンナのいない季節が、一体何度巡ったのでしょう。
暦がまた、ポールの一番悲しい日を伝えにきたある日。
揺り椅子に腰かけて窓の外を眺めるポールは、すっかり年をとっていました。
「アンナ…」
ポールは、道行く人々を眺めながら呟きました。
もしかしたら、あの中にアンナがいるのではないだろうか。
今にもこの扉を叩くのではないだろうか。
「…」
ポールはゆっくりと立ち上がり、外に出ました。
彼の足は、自然と広場の噴水に向いていました。
広場に着いたポールは、噴水にもたれかかって物思いに耽りました。
ここでアンナと出会った。
そしてあの日、ここで…。
ポールは握った手をそっと開きました。
そこには、アンナのために買った首飾りがありました。
涙のように透き通った宝石が、きらりと光りました。その時です。
「危ない!」
そんな声が聞こえたかと思うと、誰かがどんとポールにぶつかりました。
ポールは思わず、その人を抱きとめました。
それは、年取った女でした。
「も、申し訳ありません。お怪我はありませんか」
彼女を追って、一人の若者が走ってきました。
「私は大丈夫です。どうかお気になさらずに」
「本当にごめんなさい。…エレンさん、そんなに急いでどうしたんです」
エレンと呼ばれた女は、ゆっくりと顔を上げました。
女と、ポールの目が合いました。
その瞬間、ポールの顔色がさっと変わりました。
「き…君は…」
「おや?お知り合いですか、エレンさん」
男にエレンと呼ばれた女は、ぼんやりとポールを見つめています。
ポールは、その目に見覚えがありました。
それは紛れもなく、あのアンナの目だったのです。
「アンナ!アンナなんだろう!?ああ、会いたかった…!一体何があったんだ…どうして、どうして…」
ポールははっとして若者に向き直りました。
「す、すまない…取り乱してしまって。その…彼女は、僕の…」
「大切な人、なんですね。すぐに分かりました」
ポールは少し恥ずかしそうに頭をかきました。
「もう…30年以上前のことだと聞いています。彼女は、エンジ村の入口の前で、倒れているところを見つかったのです」
「エンジ村…」
それは、ここから遠く離れたところにある村でした。
「傷だらけで、服はぼろぼろ…目を覚ましたあともずっと何かに怯えていたそうです。
何があったのかは分かりませんが、とても恐ろしい思いをしたのだろうと…。
そして、そのせいなのか…」
若者は、静かに言葉を継ぎました。
「彼女は…記憶をなくしていたのです」
「き…記憶を…?」
「ええ。自分が誰なのか、どこから来たのかも思い出せなかったそうです」
「そんな…」
「村の人たちは相談し、身元が分かるまで彼女にはこの村に住んでもらおうということになりました。
エレンというのも、村の人たちが彼女のために考えた名前です。
それからは村人みんなで手を尽くしましたが、エレンさんの身元はずっと分からないままだったそうです…」
「…」
「今も村のみんなは、エレンさんのために手がかりを探しています。僕も、こうしてお手伝いを」
若者は、懐から一枚の紙を取り出し、ポールに手渡しました。
そこには、「ティカ、ポール」が書かれていました。
「こ、これは…」
「ある日の夕方…窓から夕焼けを眺めていたエレンさんが呟いたのです。この町の名と、そして…」
「…僕の名」
若者はゆっくりとうなずきました。
「アンナ…僕だよ、ポールだ。…分からないのかい?僕だよ」
ポールはアンナの目をじっと見つめながら語りかけました。
アンナもぼんやりとポールを見つめ返します。
その時でした。
広場に、5時を告げる鐘の音が響き渡りました。
澄んだ音色が、2人を包み込みます。
「…ル…」
アンナの唇がゆっくりと動きました。
「ア…アンナ…?」
「ポー…ル」
「アンナ…!そうだよ、僕だ…ポールだ!」
「ポール…ポール…!」
まるで太陽の光を受けて月が輝くように、アンナの目にふっと光が宿りました。
ポールの手がわなわなと震えます。
ポールはアンナを連れてきてくれた若者の手を握り、何度もお礼を言いました。
「ありがとう…本当にありがとう。僕は、僕は…」
アンナも若者に深々と頭を下げます。
若者は柔らかく微笑み、そっとうなずきました。
それから2人に背を向け、元来た道を帰っていきました。
「ポール…ごめんなさい。私…」
「いいんだ、君のせいじゃない。アンナ…僕はずっと、君を待ってた…」
ポールは持っていた首飾りを、そっとアンナの首にかけました。
「アンナ」
「…はい」
年老いた男の大きな手が、年老いた女の小さな手を包み込みます。
「僕と…結婚してほしい」
アンナの目から涙があふれました。
2人が出会った日、2人が出会った時刻、2人が出会ったその場所で。
失われた時間を取り戻すかのように、2人はしっかりと抱きしめあいました。
おしまい