2012年 7月2日の新作昔話
虫の知らせ
岩手県に伝わる怖い話
むかしむかし、陸中の国(りくちゅうのくに→岩手県)に、笛吹峠(ふえふきとうげ)と呼ばれる険しい峠がありました。
ある日の事、一人の父親が、この峠で道に迷ってしまいました。
「困ったな」
行けども行けども山の中で、どうしても外へ出る事が出来ません。
ようやく小高い岩の上に出ましたが、空には細い三日月があるだけで、あたりはまっ暗です。
「はて、どっちへ行けばよいのやら」
ぐーーっ
お腹が空いて腹の虫が鳴きましたが、何も食べる物は持っていません。
(このまま誰にも知られずに、ここで飢え死にするのではないだろうな)
そう思うと、子どもたちの顔が次々と浮かんで来ました。
たまらなくなった父親は、大声で子どもたちの名前を呼んでみました。
何度も何度も、繰り返し子どもの名前を呼び続けました。
とりわけ、一番可愛がっていた末っ子の名前を呼ぶときは、思わず涙がこぼれます。
さて、家の中で眠っていた子どもたちは、夜中に、ふと目が覚めました。
父親がやってきて両手で強く胸を押して、自分の名前を呼んだ様な気がしたからです。
「お父がやってきて、おらの胸を押したぞ」
末っ子が、夢の中の出来事を話すと、ほかの子どもたちも、
「うん。おらも同じ夢を見た」
と、言いました。
「みんなが同じ夢を見るとは、お父に、何かあったのだろうか?」
みんなは不安になって、もう眠る事は出来ません。
でも、どこへ探しに行けばいいのかわからないので、子どもたちは父親の安全を祈って、夜明けまで起きていました。
さて、うとうとしながら山の中で一夜を過ごした父親は、ふと、鈴の音を聞いたように思いました。
それは、山道を通る馬の首につけられたものに違いありません。
(助かった。外に出る道は近いぞ)
父親は立ち上がると、草木をかきわけて鈴の音の聞こえる方に足を早めました。
鈴の音は、だんだんはっきりと近づいて来ます。
やがて木の間から、荷物を積んだ馬の姿が見えました。
「おーい、おーい!」
父親は、夢中で叫びながら走りました。
すると馬のたづなを持った馬方が、不思議そうな顔で言いました。
「どうした?」
父親は道に迷って、山の中でひと晩すごしたことを話しました。
「そいつは大変だったな。よし、わしが送ってやるから。お前は馬に乗れ」
馬方は父親を荷物の上に座らせると、ゆっくりと山道を降りていきました。
ようやく峠まで来ると、子どもたちが心配そうに立っています。
「あっ、お父だ」
子どもたちは父親の姿を見て、うれしそうに駆け寄ってきました。
「いや、助かった。ありがとう。」
父親は馬方に何度もお礼を言うと、子どもたちと一緒に家へ戻りました。
そして父親が山の中で子どもたちの名前を呼んだ事を話すと、子どもたちも口々に不思議な夢の事を話しました。
「なるほど、それは『虫の知らせ』というものだろう」
父親が、頷いて言いました。
それを聞いた末っ子が、うれしそうに言いました。
「お父が、おらたちの名前を一生懸命に呼んでくれたから、虫が知らせてくれたんだよ」
「そうとも、そしてお前たちが、寝ずに待っていてくれたおかげだ。ありがとうよ」
父親の言葉に子どもたちは、にっこり笑いました。
おしまい