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第 107話
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イラスト 「愛ちん(夢宮愛)」 運営サイト 「夢見る小さな部屋」
しみぬき
彦一のとんち話 → 彦一について
「若様、これは大変な事ですぞ」
若様の手習いをしていた家臣達が、顔色を変えて叫びました。
それというのも若君がうっかり、習字の墨を床の間にかけてある雪舟(せっしゅう)の水墨画にかけてしまったのです。
雪舟とは室町時代の水墨画家で、雪舟の作品は日本に数えるほどしか残されていません。
それを聞いた殿様はびっくりして、さっそく腕の良い表具師(ひょうぐし)を呼んで墨の跡を消すように頼んだのです。
表具師とは、ふすまや障子、掛け軸などを修復したり張りなおす仕事です。
墨で汚れた雪舟の水墨画を見た表具師は、頭を下げて言いました。
「申し訳ございません。これは私には出来かねます。薄いしみでしたら何とか出来ますが、ここまで濃い墨では・・・」
「なんと」
困った殿様の頭に、ふと彦一の顔が浮かび上がりました。
「もしや彦一なら・・・」
そこで殿様は、彦一を城に呼びました。
「彦一よ、実はな」
話を聞いた彦一は、隣にいた表具師に聞きました。
「あの、紙のしみぬきとは、どのようにするのですか?」
「特に難しい方法ではありません。まずは紙を水張りにして紙をふやかし、汚れが落ちやすい状態でしみの所に熱いお湯を何度もかけて洗い、しみを少しずつうすくしていくのです」
「なるほど、私が知っているしみぬきと同じですね。水張りの水は、特別な物ですか?」
「はい、出来るだけ金気(かなけ→水に含まれる鉄分)や塩気を含まない水が良いとされています。井戸水などは駄目です。私は球磨川(くまがわ→熊本県)の水を取り寄せて使っています」
「球磨川ですか。急流で有名な川ですね。・・・急流、・・・金気」
少し考えた彦一は、にっこり笑うと言いました。
「では、球磨川の水よりきれいな水があったら、今まで以上にしみが取れるわけですね」
「それはそうですが、球磨川の水よりもきれいな水なんてあるはずがありません」
「大丈夫です。いますぐには無理ですが、雨が降るまで待ってください」
「雨?」
「雨?」
殿様と表具師は首をかしげましたが、こうなっては彦一を信じるしかありません。
さて、それから十日後に雨が降って、翌日は良い天気となりました。
彦一は水の入った一升どっくりを三本ぶらさげて、表具師の家をたずねました。
「おはようございます。約束の水を用意しました。これで雪舟の絵のしみを抜いてください」
表具師は彦一から水を受け取ると、彦一に尋ねました。
「これが本当に、球磨川の水よりもきれいな水ですか?」
「はい。この水ほど金気のない水はないでしょう」
彦一が自信たっぷりに言うので、表具師は彦一の言葉を信じる事にしました。
それから三日後の朝、彦一は城に呼ばれました。
彦一が城に行くと、殿様も表具師も笑顔です。
殿様が言いました。
「彦一よ。床の間を見てみろ。雪舟の絵のしみがきれいに取れたぞ」
言われて彦一が床の間の絵を見ると、しみ一つありません。
「なるほど、これは見事な仕上がりですね。表具師さんの腕前は大したものです」
その言葉に、表具師が頭を下げて言いました。
「彦一さん、全てあなたのおかげです。彦一さんが用意した水は、球磨川の水より金気がありませんでした。ところであの水は、どこの川の水でしょうか?」
「ああ、あの水は川の水ではなく、天から頂いた物です」
「天から?」
「そうです。あの水は雨水です。川の水の金気とは、地に含まれた金気が川の水に混ざった物です。急流で水の流れが速い球磨川は金気が混じる時間が少ないから、金気が少ないと思ったのです。それなら地に落ちる前の雨水は、もっと金気が少ないかと」
「なるほど」
「なるほど」
彦一の説明に、殿様と表具師は声をそろえて感心しました。
昔からの言葉に『晴れ着を雨に濡らすな』と言うものがあります。
不純物の少ない雨水は、ミネラルの含まれた川や井戸の水よりも着物の色や汚れを分解する力があります。
江戸には有名なしみぬき名人がいましたが、その名人も雨水でしみぬきをしていたと言われています。
おしまい
イメージイラスト
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国宝「秋冬山水図」 雪舟筆 室町時代(15世紀) 東京国立博物館蔵
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