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ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
4kサイズ(3840×2160)  4kサイズぬり絵(3840×2160)

「音楽界のミューズと呼ばれた自由ほんぼうな作曲家」

モーツァルト(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)は1756年1月27日オーストリアのザルツブルグに生まれました。
*日本では江戸時代後期(えどじだいこうき)の頃です。

7番目の末っ子ですが、5歳上の姉マリーア以外は幼児期に死亡しています。
当時は子供が無事に育つ割合(わりあい)がとても低かったそうです。

モーツァルトは4歳の時にはバイオリンをいきなり完璧(かんぺき )に弾(ひ)き、5歳で作曲(さっきょく)を始めました。

父のレオパルトは息子の才能(さいのう)をよろこび、各地(かくち)への演奏旅行(えんそうりょこう)に息子と共におもむきました。

1762年、6歳の時にシェーンブルン宮殿(きゅうでん)でマリア・テレジアの前で演奏し、宮殿の床ですべって転んでしまいました。
彼を助け起こしたのは7歳の皇女(こうじょ)マリア・アントーニア。
「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」
皇女はのちのマリー・アントワネットです。

1777年(21)には従姉妹(いとこ)のマリアやアロイジア・ヴェーバーという女性に恋をしますが、お父さんが猛反対(もうはんたい)して泣く泣くあきらめます。
1778年、お母さんが亡くなり。
1782年(26)にはアロイジア・ヴェーバーの妹コンスタンツ ェと父の反対を押し切って結婚。
彼女は奔放(ほんぼう)で浪費家(ろうひか)。
自分の欲望(よくぼう)に正直な人で稀代(きだい)の悪妻(あくさい)と言われていますが、彼女を選んだモーツァルトもまた奔放で浪費家。
自分の欲望に正直。
似たもの夫婦だったのです。

モーツァルトは現在で言う発達障害(はったつしょうがい)を抱えていたとか。
アスペルガー症候群(しょうこうぐん)だったとか聞きます。
そういう子供の中には特殊(とくしゅ)な才能を持つ子がいると言いますが、彼も一度聞いただけの曲を演奏したり、楽譜(がくふ)に書いたりの絶対音感(ぜったいおんかん)の持ち 主でした。
(それも超難解(ちょうなんかい)な曲も)

音に色や味、感触(かんしょく)を感じる共感かく(きょうかんかく)の持ち主でもあったと言います。

また彼は一度に何曲も曲をかいたり、人と話しながら曲を描いたり、曲を描きながら次の曲を作曲したりできました。

1786年(30)4月ベートーヴェンが彼を訪ねて来たとされていますが正式な記録には残っていません。
5月にはお父さんのレオパルトが亡くなります。
お父さんが亡くなった後完成したオペラ。
『ドン・ジョウ゛ァンニ』の逸話(いつわ)です。
プラハエステート劇場で初演(しょえん)することになり、モーツァルト自信が指揮(しき)をとることになります。

モーツァルトやキャストの歌手たちが園遊会(えんゆうかい)に出てくつろいでいると・・
劇場の支配人が凄(すご)い形相(ぎょうそう)でかけこんで来て 、モーツァルトに向かってわめき散らしました。
「序曲(じょきょく)、序曲はどこにある? どこにもないんだ!」
それを聞いたモーツァルトは少しも騒がず、静かに答えました。
「心配するなよ。もう出来てるよ」
支配人は、その答えに余計慌てます。
「出来てるって? どういう意味だ?」
この時、モーツァルトは…
「僕の頭の中に…」
と、自分の頭を指さして静かに答えました。
「みんな僕の頭の中にある。最後の音符まで…」
かっこいいです。

モーツァルトの晩年(と、言っても若かったのですが)は仕事に恵まれませんでしたが、それは宮廷楽長(きゅうていがくちょう)サリエリが彼の才能を恐れ、冷遇したからとも言われています。
その辺は映画「アマデウス」で詳しいです。

仕事に恵まれないうえ、友人などによる数々の借金の催促(さいそく)。
(モーツァルトはお人よしだったりどんぶり勘定なのもあってか文句を言いながらも貸していました。そのほとんどはたぶんふみ倒されたのでしょう。)
そして自らと妻による浪費で、亡くなる前はかなり苦しい生活だったようです。
また貴族相手に演奏会を開いても、当時の慣習として(悪習?)金銭でなく記念品を渡すということが横行(おうこう)していて、父親と演奏会をしていた頃からモーツァルトを悩ませていました。

貴族のしている金時計を渡されることが多かったのですが「私は金時計ならもう5個も6個も持っている!」と憤っていたようです。

金時計をこれ以上渡されないように、ポケットをたくさん作って金時計を全部入れて貴族たちにいかに金時計はもういらないか見せびらかそうかとさえしていたようです。
しかし貴族たちは音楽家の生活のことなんて考えていません。
どんなに説明しても現金を貰えることは滅多(めった)になかったと言います。

当時の芸術家はどんな天才でも、爪に火をともすぐらい貧しい場合も、ままあったのです。
芸術家がお金を儲けるには宮廷のお抱えになるか、気前のいいパトロンを見つけるぐらいしか方法が無かったのです。
(どちらも拒否したベートーヴェンは生涯ひどく貧乏でした)
謎の不気味な男からの依頼を受けて死者への鎮魂歌(ちんこんか)「レクイエム」を作曲中、病床につき1791年12月5日35歳でウィ―ンで亡くなります。
*謎の男は死神で「レクイエム」は呪われた歌だといううわさが長くつきまとっていましたが、現在ではその男の正体がわかっています。

いろいろな作曲家に依頼しては、その曲を横度りして自分のものと して発表していた詐欺師(さぎし)でした。
人のものを横取り、そんなビジネス(?)をする人、最近も話題ですよね。

妻との間に4男2女をもうけましたが成人したのは男の子二人です。
そのうちの一人は父の名を継ぎ「モーツアルト2世」を名乗ります。
彼は父と同じ音楽家になりました。
息子たちは子供を残さなかったので、直系の子孫は残っていません。

モーツァルトの死因は「リューマチ性の熱」とも、食べ物にあたったとも、また瀉血(しゃけつ)を多くされ過ぎて死んでしまったとも言います。
(当時は病気の原因は血が多すぎるからとか、悪い血が体に留まっているからとか言われ、医者が何かあるとすぐに血を抜いていました。それで死んだ人はたくさんいたようです)
貧血の私には恐ろしいです。><

または彼の属(ぞく)していたフリーメーソンで、問題を起こし抹殺(まっさつ)されたというもの、有名な説では彼を冷遇(れいぐう)したサリエリが才能をねたんで毒殺したというもの、モーツァルト自身、自分は毒を盛られた!と言っていたそうです。

噂は当時から高まり、サリエリが生きている間ずっと彼を悩ませたようです。

ところがサリエリ自身はモーツァルトへの冷遇を後悔していたらしく、息子のモーツアルト2世を弟子にして何かと取り立てていたそうです。

モーツァルトの名言。
「多くのことをなす近道は、一度にひとつのことだけすることだ」
「私は人の賞賛や非難をまったく気に留めない。ただ自分の感じる ままに行うんだ」
「夢を見るから、人生は輝く」

モーツァルトの代表曲
「フィガロの結婚」
「魔笛」
「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」
「トルコ行進曲」

クイズ
モーツァルトも持っていたと言われる共感覚。
それを持つのは1万人または100人に1人ぐらいと言います(開きが激しいです。)
それでは共感覚というのはどちら?

1、相手に共感し涙を流せる能力
2、文字や音楽に色がついて見える


答え2

共感覚の歴史上の人物にはレオナルドダヴィンチやリスト、宮沢賢治(みやざわけんじ)などです。
最近では爆笑問題の田中雄二さんが有名です。
芸術家は共感覚の持ち主の割合が一般人よりもかなり高めだそうです。

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