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なぞなぞ魔法学園
坂本龍馬
坂本龍馬
4kサイズ(3840×2160)  4kサイズぬり絵(3840×2160)

「新しい日本をめざして幕末を駆けぬけた志士(あたらしいにほんをめざしてばくまつをかけぬけたしし)」坂本龍馬うんちく

坂本龍馬(さかもとりょうま)は江戸時代末期(えどじだいまっき)、1836年天保(てんほ)6年11月15日、土佐藩(とさはん)に生まれます。
お父さんは土佐藩の下級武士(かきゅうぶし)で坂本家三代目当主(とうしゅ)八平(はちへい)1797〜1856、お母さんは幸(こう)1796〜1846。
幸が坂本家(さかもとけ)の一人娘(ひとりむすめ)で、八平は養子(ようし)です。
(八平は隠居後(いんきょご)の名前(なまえ)で、その前(まえ)は直足(なおたり)といいました。ほかにもいくつか名前を持っていました。当時(とうじ)は名前がいくつもあったようです。)
龍馬のばあいも通称(つうしょう)で、本名(ほんみょう)は「直陰(ナオカゲ)」のちに「直柔(ナオナリ)」他に「梅太郎(うめたろう)」とも名乗(なの)っていました。
当時は通称を名乗(なの)ることが多(おお)かったようです。
龍馬という通称は彼が生まれる前(まえ)の晩(ばん)に、母親(ははおや)が龍(りゅう)が天(てん)を飛(と)ぶ吉夢(きちむ)を見(み)たからと言います。

また、幸が子供(こども)のときから猫(ねこ)をかわいがっていて、龍馬の妊娠中(にんしんちゅう)も、ずっと猫を抱(だ)いていたため、龍馬の背中(せなか)には黒々(くろぐろ)と毛(け)がはえていたとかいう言い伝(つた)えもあります。
龍馬は二男(じなん)で、上に兄の権平(ごんぺい)1814〜1871、三人の姉(あね)千鶴(ちづる)1817〜1862、栄(えい)(制没年不明)、乙女(おとめ)1832〜1879がいました。
その中では龍馬の教育(きょういく)を熱心(ねっしん)におこなった乙女が有名(ゆうめい)です。
長男(ちょうなん)の権平とは21歳の年の差(さ)がありました。
長女の千鶴は龍馬が生まれた時20歳で結婚(けっこん)していました。
夫は土佐藩郷士高松順蔵(とさはんきょうしたかまつじゅんぞう)で、剣(けん)の腕(うで)は名人級(めいじんきゅう)、若(わか)いときには日本各地(にほんかくち)を旅(たび)して多(おお)くの歌人(かじん)や学者(がくしゃ)と親(した)しくしたといいます。
やがて私塾(しじゅく)をひらきますが、門弟(もんてい)にのちに龍馬とともに死んだ中岡慎太郎(なかおかしんたろう)、のちの海援隊(かいえんたい)の志士(しし)などがいました。
龍馬は千鶴と順蔵によくなつき、家(いえ)に出入(でい)りしていました。
縁側(えんがわ)に座(すわ)りそこから見える太平洋(たいへいよう)をよくながめていたといいます。
龍馬の思想(しそう)は、この義兄(ぎけい)の影響(えいきょう)をうけたようです。
千鶴もこの年の離れた弟(おとうと)を大変可愛(たいへんかわい)がり、江戸(えど)へ行った龍馬にお守(まも)りをおくったりしています。
後に、寺田屋(てらだや)に居候(いそうろう)した時、「ここはまるで順蔵さんの家(いえ)にいるような居心地(いごこち)だ」と手紙(てがみ)を書いています。
母親の幸は年をとってから生まれた末っ子(すえっこ)の龍馬をとてもかわいがっていたと言います。
次女の栄が生まれたころから乳(ちち)が出なくなり、家には多くの乳母(うば)がでいりしていました。
龍馬の乳母の名はおやべという名でしたが、幸があまりに龍馬をかわいがるので、乳母のおやべとは仲(なか)が悪(わる)かったと言います。
しかし龍馬自身は乳母にもなついていて、後年(こうねん)おやべにいたわりの手紙を出したりしています。
下級武士とはいえ質屋(しちや)や酒造業(しゅぞうぎょう)、呉服商(ごふくしょう)など手広(てびろ)く商売(しょうばい)をする豪商(ごうしょう)でとても裕福(ゆうふく)な暮(くら)らしだったようです。

龍馬の家は裕福だったのですが当時の武家(ぶけ)では長男以外(いがい)の男子(だんし)は部屋住み(へやずみ)と言われ、特に貧(まず)しい家では格下(かくした)の家に養子(ようし)に出されたり、内職(ないしょく)をして暮らしをたてたり、追(お)い出されて浪人(ろうにん)になったりしてました。
正式(せいしき)な結婚(けっこん)も認(みと)められないことが多かったのです。
(結婚したい場合内縁関係(ないえんかんけい)での結婚でした)
長子(ちょうし)以外の男子は頭(あたま)を押(おさ)さえつけられるような生きづらい世の中だったのでしょうね。
*龍馬のお父さんの八平も山本家(やまもとけ)の次男で、坂本家に16歳で婿養子(むこようし)に入っています。
武芸(ぶげい)に秀(ひい)で、書(しょ)や和歌(わか)、学問(がくもん)でも優秀(ゆうしゅう)だったとか。

1846年、10歳の時に母の幸が死去(しきょ)し、後妻(ごさい)の伊予(いよ)1804〜1865が家に入ります。
かわいがってくれた母の死の影響かわかりませんが、龍馬は12,3歳まで寝小便癖(ねしょうべんぐせ)があったといいます。
父の八平は幸とは違い厳(きび)しく、子供時代、気弱(きよわ)だった龍馬を憂(うれ)いていたと言います。
気弱な少年は漢学(かんがく)の楠山塾(なんざんじゅく)に入ったものの、いじめにあい抜刀騒(ばっとうさわ)ぎをおこし退塾(たいじゅく)させらました。
それ以降(いこう)三女の姉の乙女が武術(ぶじゅつ)や学問を教(おし)えたと言います。
当時、後妻の伊予の前夫(ぜんおっと)の実家(じっか)の川島家(かわしまけ)に、乙女と龍馬はたびたび訪(おとず)れていました。
川島家は土佐藩御船蔵(おふなぐら)のある種崎(たねざき)に住(す)んでいました。
長崎(ながさき)や下関(しものせき)からのめずらしい土産話(みやげばなし)をくいいるように聞いていたようです。
また世界地図(せかいちず)や数々(かずかず)の輸入品(ゆにゅうひん)を見て、世界への憧(あこが)れをたかめました。
その出来事(できごと)はのちの龍馬の生き方に大きな影響(えいきょう)を与えたのでしょう。
*継母(ままはは)の伊予は、夫に二度先立(さきだ)たれ、八平は3人目の夫でした。
薙刀(なぎなた)の名人(めいじん)で躾(しつけ)には厳(きび)しいけれど、慈悲(じひ)と義理(ぎり)は大変深(たいへんふか)い聡明(そうめい)な人であったと伝(つた)わっています。
伊予は龍馬に「男は強(つよ)くて優(やさ)しくないといかん」と教えていたそうです。

1848年小栗流(おぐりりゅう)の道場(どうじょう)に入門(にゅうもん)して熱心(ねっしん)に5年修行(しゅぎょう)をし「小栗流和平法事目録(*おぐりりゅうわへいほうじにゅうもん*)」を得ます。
皆伝(かいでん)のようなもののようです。
*和平の読みがハッキリわかりません。わだいらかもしれません*
この道場は、剣の術(じゅつ)というよりは「和(やわら)→柔」の術を教える所だったようです。
やわらとは主に相手を殺傷(さっしょう)せずに捕(とら)らえたり、身を護(まもる)る護身術(ごしんじゅつ)を重視(じゅうし)する流儀(りゅうぎ)で、現在(げんざい)の柔道(じゅうどう)、合気道(あいきどう)の元祖(がんそ)と言われているようです。
龍馬は12〜17のわずか五年間で皆伝を得ていることから柔(やわら)の道に優秀(ゆうしゅう)だったことがわかります。
小栗流目録(おぐりりゅうもくろく)を得た後、龍馬は剣術修行(けんじゅつしゅぎょう)のために1年間、江戸(えど)を自費(じひ)で遊学(ゆうがく)することを藩(はん)に願(ねが)い出て許(ゆる)されます。

父の八平は龍馬に、忠孝(ちゅうこう)を忘(わす)れることなく修行に励(はげ)み、「金銭(きんせん)を費(ついや)やさない、色情(しきじょう)に心(こころ)を移(うつ)し、国家(こっか)の大事(だいじ)を疎(おろそ)かにすることのないように、という意味(いみ)の三箇条(さんかじょう)をうたった「修行中心得大意(しゅぎょうちゅうこころえたいい)」を送りました。
1853年(17歳)*溝渕広之丞(みぞぶちひろのじょう)*と二人土佐を出立(しゅったつ)。
*龍馬より8歳年上で、よき兄貴分(あにきぶん)で理解者(りかいしゃ)だったようです。そのごもずっと龍馬を支(ささ)えていました。龍馬の暗殺後(あんさつご)、弟分(おとうとぶん)の死がショックだったのか隠遁生活(いんとんせいかつ)にはいります*

4月頃江戸に到着(とうちゃく)。
築地(つきじ)の中屋敷(なかやしき)に寄宿(きしゅく)。
そして北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)の千葉道場(ちばどうじょう)に(東京都中央区(とうきょうとちゅうおうく))入門(にゅうもん)します。
道場主千葉定吉(どうじょうしゅちばさだきち)の娘(むすめ)の一人、さな子と龍馬は恋(こい)におち、婚約(こんやく)します。
定吉も龍馬にめをかけていて二人を結婚(けっこん)させたいと龍馬の故郷(こきょう)に手紙を書(か)いていたようです。
その後のさな子の回想(かいそう)によると、どうも龍馬は志(こころざし)を果(は)たすまでまっていてほしいというようなことを言ったようです。
待ち続(つづ)けるさな子と反対(はんたい)に龍馬はあちこちでモテモテで、やがてお龍(りょう)という女性と結婚してしまいます。
龍馬が小千葉道場で剣術修行を始(はじ)めた直後(ちょくご)の6月3日。
ペリーの黒船(くろぶね)が浦賀沖(うらがおき)に来航(らいこう)します。
日本中(にほんじゅう)が上(うえ)に下(した)にの大騒(おおさわぎ)ぎになりました。
龍馬も臨時招集(りんじしょうしゅう)され、土佐藩下屋敷守備(とさはんしもやしき)の任務(にんむ)に就(つ)きます。

その頃龍馬の家族(かぞく)へ書き送った手紙には「戦(いくさ)になったら異国人(いこくじん)の首(くび)をうちとって帰国(きこく)します」と書かれています。

6月22日徳川家慶死去(とくがわいえよししきょ)。
11月23日徳川家定(いえさだ)が将軍(しょうぐん)に12月龍馬は有名(ゆうめい)な軍学家(ぐんがくか)、思想家(しそうか)である佐久間象山(さくましょうざん・ぞうざんとも読みます)の私塾(しじゅく)に入学(にゅうがく)して学んだのはこの頃のことです。
「砲術(ほうじゅつ)」「漢学(かんがく)」「蘭学(らんがく)」などの学問(がくもん)を学んだのですが象山は翌年4月には吉田松陰(よしだしょういん)の軍艦密航事件(ぐんかんみっこうじけん)に関係(かんけい)したとして投獄(とうごく)されてします。
*佐久間象山の門弟(もんてい)には坂本龍馬のほかに吉田松陰(よしだしょういん)や、勝海舟(かつかいしゅう)などがいました。
門弟の吉田松陰がペリー艦隊(かんたい)で密航(みっこう)を企(くわだ)てた事件(じけん)に連座(れんざ)し伝馬町牢屋敷(でんまちょうろうやしき)に入獄(にゅうごく)、解放(かいほう)された後も蟄居(ちっきょ)せざるを得(え)なくなり、その後暗殺(あんさつ)されます。

1854年6月、龍馬は15か月の江戸修行(えどしゅぎょう)を終(お)えて土佐に帰国(きこく)。
故郷にいるまに、オランダ語(ご)など様々(さまざま)な勉強(べんきょう)をしていました。

1855年12月(19歳)、父の八平が死去。
翌(よく)2月に兄の権平が家督(かとく)を継(つ)ぎます。
7月再(ふたた)び藩(はん)に江戸剣術修行(えどけんじゅつしゅぎょう)を願(ねが)い出て、8月に1年間の修行が許(ゆる)されます。

9月江戸に到着(とうちゃく)。
再び千葉道場(ちばどうじょう)に遊学(ゆうがく)。
大石弥太郎(おおいしやたろう)、や武市半平太(たけちはんぺいた)らとともに土佐勤王党(とさきんのうとう)を結成(けっせい)しました。

1857年(21歳)
一年の修行延長(しゅぎょうえんちょう)を願い出て許されます。

8月盗(ぬす)みを働(はたらき)き、切腹沙汰(せっぷくざた)になった従兄弟(いとこ)の*山本琢磨*(やまもとたくま)を逃(のが)がします。
(酔(よ)った勢(いきおい)いで、友人(ゆうじん)と拾(ひろ)った金時計(きんどけい)を質屋(しちや)にうってしまったとか)
その時龍馬は従兄弟に「こんなことで死ぬな。馬鹿馬鹿(ばかばか)しい」と言ったそうです
(ほんとうですね・・)
琢磨は後に日本ハリストス正教会(せいきょうかい)の日本人初(にほんじんはつ)の司祭(しさい)になります。
*龍馬と別(わか)れた後(あと)、北海道(ほっかいどう)の函館(はこだて)にながれつき、そこで剣術(けんじゅつ)の腕(うで)を買われ道場を開きます。
その関係(かんけい)で知り合った函館神明宮(はこだてしんめいぐう)、(現山上大神宮(やまのうえだいじんぐう))の宮司(ぐうじ)にこわれて娘(むすめ)と結婚。
婿養子(むこようし)になります。
当時の函館はすでに開港(かいこう)していてロシアの領事館(りょうじかん)があり、附属(ふぞく)の教会(きょうかい)の司祭(しさい)として来日(らいにち)していたニコライ神父(しんぷ)は日本宣教(にほんせんきょう)のきかいをうかがっていました。
とうじ攘夷論者(じょういろんしゃ)だった琢磨(たくま)は、ロシアは日本侵略(にほんしんりゃく)のために来たのではとうたがい、神父のことも密偵(みってい)ではないかと思います。
そこで殺害(さつがい)を考え、あいに行きますが「ハリストス正教(せいきょう)の教えをしっているか」ときかれます。
しらぬと答えた琢磨に「ハリストス正教がいかなるものかをしってからいいか悪(わる)いかをを判断(はんだん)するのでもおそくはなかろう」とさとしました。
一理(いちり)あると考えた琢磨は教(おし)えを学んでいるうちに心腹(しんぷく)。
友人たちを誘(さそ)ってキリスト教について学び、日本は当時キリスト教禁制(きょうきんせい)だったのですが、洗礼(せんれい)を受け日本ハリスと教会初の信者(しんじゃ)となります。
洗礼後もしばらくは宮司と兼任(けんにん)していました。

キリスト教禁制下、神道の宮司が邪教(じゃきょう)とされていた。
キリスト教に入信(にゅうしん)したことで琢磨と家族は大変な迫害(はくがい)を受けます。
生活にも困窮(こんきゅう)。
琢磨は妻子(さいし)をおいて函館をだしゅつ。
東北(とうほく)で布教活動中(ふきょうかつどうちゅう)、つかまり逮捕(たいほ)。
明治(めいじ)になりキリスト教がゆるされるとやっと自由(じゆう)の身となり伝道に力を入れました。
やがて司祭(しさい)になり宣教に生涯(しょうがい)をささげました。
1912年師(し)のニコライ大主教(だいしゅきょう)が永眠(えいみん)すると、翌年(よくねん)あとを追うように家族に見守(みまも)られながら亡(な)くなりました。
(この人もおもしろい人生(じんせい)なのでページをさいて紹介(しょうかい)してしまいました^^;)*

1858年(龍馬22歳)
1月、千葉定吉(ちばさだきち)より「北辰一刀流長刀兵法目録(ほくしんいっとうりゅうなぎなたへいほうもくろく)」を伝授(でんじゅ)。

7月将軍家定(しょうぐんいえさだ)死去。

9月土佐に帰郷(ききょう)。
同じころ、安政(あんせい)の大獄(たいごく)が始(はじ)まり(尊王攘夷派(そんのうじょういは)の討伐(とうばつ))。
後(のち)の龍馬の妻(つま)お龍(りゅう)の父親が獄死(ごくし)します。

10月家茂(いえもち)が将軍になります。

1860年(24歳)3月3日。
井伊直弼(いいなおすけ)が桜田門外(さくらだもんがい)で水戸脱藩浪士(みとだっぱんろうし)らに暗殺(あんさつ)されると、土佐でも*下士*(かし)の間で議論(ぎろん)がまきおこります。
*下士とは身分(みぶん)の低(ひく)い武士(ぶし)のこと*
尊王攘夷思想(そんのうじょういしそう)が土佐藩下士(とさはんかし)の主流(しゅりゅう)になります。
*「尊王攘夷」
「尊王」天皇制(てんのうせい)の復活(ふっかつ)を願(ねが)うこと。
「攘夷」黒船(くろふね)などの脅威(きょうい)にたいして、弱腰(よわごし)の幕府(ばくふ)に対する反感(はんかん)が高まり、外国人(がいこくじん)の排斥(はいそ)を訴(うった)える運動(うんどう)のこと。
尊王攘夷の声はやがて倒幕(とうばく)への大きな波(なみ)になります。
7月、龍馬の親(しん)せきで盟友(めいゆう)である武市半平太(たけちはんぺいた)が、門人(もんじん)の*岡田以蔵(おかだいぞう)*ら4人で各藩(かくはん)を巡(めぐ)って時勢(じせい)を視察(しさつ)しに土佐を出立(しゅったつ)。
*幕末(ばくまつ)4大人斬り(だいひときり)の一人と恐(おそ)れられた人物(じんぶつ)。
土佐藩勤王党(とさはんきんのうとう)に依頼(いらい)され人斬りをおこなっていました。
一時(いちじ)は龍馬の紹介(しょうかい)で勝海舟(かつかいしゅう)の警護(けいご)もしていました。
海舟が京(きょう)の夜道(よみち)で刺客(しきゃく)に襲(おそ)われたときにすくっています。
ちなみに4大人斬りの一人。
河上彦斎(かわかみげんさい)は龍馬が軍法(ぐんぽう)などを学んだ。
佐久間象山(さくましょうざん)を暗殺(あんさつ)していますが、彼は「人斬り彦斎(ひときりげんさい)」と呼ばれていました。
普段(ふだん)は礼儀正(れいぎただ)しい人物で温和(おんわ)、反面平気(はんめんへいき)で人を切る残忍性(ざんにんせい)をもちあわせていて、当時、比類(ひるい)なき天才剣客(てんさいけんきゃく)と呼ばれ、彼をつけ狙(ねら)っていた近藤勇(こんどういさみ)さえ対面(たいめん)すると、思わず避(さ)けて通(とお)ったと言います。
小柄(こがら)で女性(じょせい)のように色白(いろじろ)だったと言い、(写真(しゃしん)を見るとツンデレ系(けい)の美少女(びしょうじょ)のようです)明治政府(めいじせいふ)に反抗(はんこう)して斬首(ざんしゅ)されています。
彼(かれ)は「るろうに剣心(けんしん)」の主人公剣心(しゅじんこうけんしん)のモデルになりました。
武市半平太(たけちはんぺいた)は長州(ちょうしゅう)の尊王攘夷の中心人物(ちゅうしんじんぶつ)。
久坂玄瑞(くさかげんずい)、薩摩(さつま)の*樺山三円(かばやまさんえん)*らと調停(ちょうてい)をかさねて幕府に対抗(たいこう)する盟約(めいやく)をかわします。
*島津斉彬(しまづなりあきら)の茶坊主(ちゃぼうず)で機密(きみつ)の用をこなしていました。
他藩(たはん)との連絡活動(れんらくかつどう)に従事(じゅうじ)。

土佐に戻(もど)った武市(たけち)は192人の同志(どうし)を募(つの)り、龍馬も9番目に加盟(かめい)します。
そして藩にも、長州と薩摩の動きを伝(つた)え尊王攘夷の方向(ほうこう)にむかうことを訴(うった)えますが、参政(さんせい)吉田東洋(よしだとうよう)をはじめとした藩政府(はんせいふ)は保守的(ほしゅてき)でそれを支持(しじ)しませんでした。
武市はそれに心折(こころお)れることなく、同士を四国(しこく)、中国(ちゅうごく)、九州(きゅうしゅう)へ動静調査(どうせいちょうさ)のために派遣(はけん)しました。
その中に龍馬もいました。

丸亀藩(まるかめはん)への剣術修行(けんじゅつしゅぎょう)の名目(めいもく)で土佐藩の許(ゆる)しをえて、武市の密使(みっし)として長州にむかいます。

1862年1月
久坂玄瑞(くさかげんずい)と対面(たいめん)。
武市への書簡(しょかん)を託(たく)されます。
同年2月任務(にんむ)をおえて土佐に帰郷(ききょう)。

この頃、薩摩藩国父島津久光(さつまはんこくふしまづひさみつ)が兵を率(ひき)いて上洛(じょうらく)の知らせがあり、動きのない土佐藩に憤(いきどお)りを感じていた土佐勤王党の若者の中には脱藩(だっぱん)して京都に行き、薩摩藩の勤王党に参加(さんか)しようとするものが出てきました。
島津久光は実は幕府改革(ばくふかいかく)を進(すす)めるための上洛だったのですが勘違(かんちが)いされたのです。
島津自身(しまづじしん)は秩序(ちつじょ)を重(おも)んじる厳(きび)しい性格(せいかく)で、目指(めざ)しているのは倒幕ではなく公武合体(こうぶがったい)でした。
すでに西郷隆盛(さいごうたかもり)らを捕縛(ほばく)して藩に帰(かえ)らせ処罰(しょばつ)していました。
しかし仲間(なかま)から進められ島津久光の真意(しんい)を知らない龍馬も脱藩へ心(こころ)が傾(かたむ)いていきました。
脱藩は当時、重罪(じゅうざい)で、藩内(はんない)に残(のこ)った家族友人(かぞくゆうじん)まで、連座(れんざ)の罪(つみ)に問(と)われるものでした。
武市(たけち)は脱藩には反対(はんたい)の立場(たちば)でした。
龍馬の兄の権平は龍馬の脱藩を恐(おそ)れて、見張(みは)りをたて、刀(かたな)もとり上げてしまっていました。
この時姉の乙女、または栄(えい)が、権兵をだまして倉庫(そうこ)から秘蔵(ひぞう)の刀「肥前忠広(ひぜんただひろ)」を取り出し、龍馬の門出(かどで)に与(あた)えたという逸話(いつわ)があります。
*このころ兄の権兵は龍馬の土佐藩脱藩には断固反対(だんこはんたい)のたちばでしたが、のちに理解(りかい)を示(しめ)し、資金援助(しきんえんじょ)をしてくれました。

1862年(26歳)3月24日龍馬は仲間(なかま)に助(たす)けられ脱藩します。
先(さき)に脱藩していた沢村(さわむら)と合流(ごうりゅう)、仲間の吉村寅太郎(よしむらとらたろう)のひそむ長州(ちょうしゅう)の豪商(ごうしょう)*白石正一郎*(しらいししょういちろう)の家に行きますが、彼は二人を待たずに先に京都に行ってしまっていました。
*尊王攘夷派のスポンサー的存在。
西郷隆盛(さいごうたかもり)は彼を「温和(おんわ)で清廉(せいれん)、実直(じっちゃく)な人物(じんぶつ)である」と言ったそうです。
新時代(しんじだい)を築(きづ)きあげる人材(じんざい)を経済面(けいざいめん)でたすけました。
その頃、島津久光は尊攘派藩士の動(うご)きを知り仰天(ぎょうてん)。
朝廷(ちょうてい)からも不穏分子(ふおんぶんし)の志士たちを鎮圧(ちんあつ)する命(めい)をうけ動きだします。
それに驚(おどろ)いたのは討幕派(とうばくは)の志士たち。
仲間(なかま)と思(おも)っていた島津久光の裏切(うらぎ)りに激怒(げきど)します。

有馬新八(ありましんぱち)、柴山愛次郎(しばやま あいじろう)など薩摩藩の過激派(かげきは)は、他(ほか)の尊王派志士(そんのうはしし)と共謀(きょうぼう)して関白九条尚忠(かんぱくくじょうなおただ)(昭和天皇の曽祖父(しょうわてんのうのそうそふ)で、公武合体(こうぶがったい)を唱(とな)え、和宮降嫁(かずのみやこうか)をおし進めた人物(じんぶつ)で尊皇派から憎(にく)まれていました)と京都御所司代酒井忠義(きょうとごしょしだいさかいただよし)、(同(おな)じく和宮降嫁を推し進めた)の首(くび)をとり、島津久光に奉(ほう)じることで無理(むり)やりでも蜂起(ほうき)を促(うなが)そうと企(くわだ)てました。
*和宮(かずのみや)
考明天皇(こうめいてんのう)の皇妹(こうまい)。
すでに婚約者(こんやくしゃ)がいたのに公武合体派に無理やり徳川家茂(とくがわいえもち)との結婚(けっこん)をおし進められます。
激(はげ)しく拒否(きょひ)したものの、どうしてもだめなら孝明天皇のまだ生まれたばかりの姫(ひめ)を送(おく)ると言われ泣(な)く泣く承諾(しょうだく)。
しかし降嫁後(こうかご)は意外にも家茂と愛(あい)しあうようになります。
志士たちは当時薩摩藩の定宿(じょうやど)であった寺田屋(てらだや)を集合場所(しゅうごうばしょ)にしていました。
志士たちの動(うご)きをしった久光は、使者(ししゃ)を送り説得(せっとく)を試(こころ)みますが失敗(しっぱい)。

23日、薩摩藩邸では決起(けっき)を止(と)めようとした永田佐一郎(ながたさいちろう)が、とめられないと知り切腹(せっぷく)。
それに驚(おどろ)いた久光は、さらに説得を試みますが失敗。
やむなく「上意討ち(じょういうち)」もやむなしと言い含(ふく)め剣術に優(すぐ)れた藩士9名を派遣(はけん)します。

4月23日、寺田谷に集(あつ)まった面々(めんめん)と、押(お)し入った面々の同士(どうし)うちになり、志士の6名が死亡(しぼう)、生きのこった負傷者(ふしょうしゃ)2名も後に切腹させられます。
討手(うちて)での死者は1名でした。
その他寺田谷にいなかった薩摩藩士も帰藩謹慎(きはんきんしん)を命(めい)じられました。
土佐藩の志士たちも何人(なんにん)かは逃亡(とうぼう)したものの、多(おお)くは投降(とうこう)。
藩に戻(もど)され、引(ひ)き取(と)り手(て)のない浪人(ろうにん)たちは、だまされて海(うみ)の上(うえ)で斬首(ざんしゅ)されました。
遺体(いたい)は海に流(なが)され、小豆島(しょうどしま)に漂着(ひょうちゃく)。
地元(じもと)の農民(のうみん)の手(て)で手厚(てあつ)く葬(ほうむ)られたと言います。
この事件(じけん)により朝廷(ちょうてい)の久松への信望(しんぼう)は高まり、彼は公武合体政策のため江戸へ向かいます。
そのころ龍馬はどうしていたのでしょうか?

先(さき)に京都に向かった仲間の吉村は捕縛(ほばく)され土佐へ送還(そうかん)されます。
龍馬は目標(もくひょう)をなくし、土佐に戻(もど)るわけにもいかず、一緒(いっしょ)に潜(ひそ)んでいた沢村と別(わか)れて、薩摩藩の動きを探(さぐ)るために九州(きゅうしゅう)に向かったと言われています。
しかしそのころ土佐で尊王攘夷派(そんのうじょういは)に反対(はんたい)していた。
吉田東洋(よしだとうよう)が暗殺され、龍馬が容疑者(ようぎしゃ)にされます。
武市はこの頃土佐藩の上部(じょうぶ)の説得(せっとく)に成功(せいこう)して、藩主(はんしゅ)の上洛(じょうらく)を促(うなが)していました。

8月
龍馬は江戸に入り千葉道場に寄宿(きしゅく)。
この間、土佐藩の同士や長州の久坂玄瑞(ひささかげんずい)、高杉晋作(たかすぎしんさく)らと交流しています。

12月5日
幕府総裁職(ばくふそうさいしょく)にあった前福井藩主(ぜんふくいはんしゅ)、松平春嶽(まつだいらしゅんがく)に拝謁(はいえつ)。

12月9日
春嶽から幕府軍艦奉行並(ぐんかんぶぎょうなみ)、勝海舟(かつかいしゅう)への紹介状(しょうかいじょう)をうけ、勝海舟の屋敷(やしき)を訪(おとず)れ弟子(でし)になります。
じつは勝海舟を切るために訪れたのが、逆(ぎゃく)に世界情勢(せかいじょうせい)や海軍(かいぐん)の必要性(ひつようせい)を説(と)かれ、おおいに感服(かんぷく)、そのばで海舟の弟子になったそうです。
姉、乙女への手紙で海舟を「日本第一(にほんだいいち)の人物(じんぶつ)」とほめちぎっています。
海舟が土佐藩にとりなしたために1863年には龍馬の脱藩(だっぱん)の罪(つみ)はゆるされます。
さらに海舟の私塾(しじゅく)に入門(にゅうもん)することも許可(きょか)されます。
龍馬は海舟が進めていた海軍躁錬所(かいぐんそうれんじょ)のために奔走(ほんそう)。
また土佐藩出身(とさはんしゅっしん)の龍馬の仲間(なかま)たちも門下生(もんかせい)にくわわります。

4月14日
将軍家茂が軍艦(ぐんかん)「順動丸(じゅんどうまる)」に試乗(しじょう)。
「神戸海軍操練所(こうべかいぐんそうれんじょ)」の設立(せつりつ)を許可。
三千両(さんぜんりょう)の経費(けいひ)の支給(しきゅう)をうけとりますがたりず、龍馬は福井藩(ふくいはん)に出むき、松平春嶽(まつだいらしゅんごく)から千両を借(か)ります。
しかしその頃、土佐藩では下士階層(かしかいそう)の武市が、藩を主導(しゅどう)していることに不満(ふまん)をもった分子(ぶんし)が実権(じっけん)をとり戻(もど)すべく、吉田東洋暗殺(よしだとうようあんさつ)の下手人探索(げしゅにんたんさく)をめいじ、土佐勤王党の厳粛(げんしゅく)にのりだします。

4月、勤王党の平井収二郎(ひらいしゅうじろう)他(ほか)2人が切腹(せっぷく)させられます。
平井の妹(いもうと)「加尾(かお)」はとうじ、龍馬の恋人(こいびと)とされた女性(じょせい)で、龍馬も姉の乙女への手紙(てがみ)で恋人と兄(あに)の無念(むねん)を嘆(なげ)いています。
またおなじ手紙で、米仏軍艦(べいふつぐんかん)と交戦(こうせん)して、やぶれた長州藩(ちょうしゅうはん)の情勢(じょうせい)と、幕府(ばくふ)が異人(いじん)と通(つう)じて外国船(がいこくせん)の修理(しゅうり)をしていることに強(つよ)い危機感(ききかん)をだき、「日本(にほん)を今一度洗濯(いまいちどせんたく)いたし申(もう)し候(そうろう)」と、有名(ゆうめい)な言葉(ことば)をのこしています。

8月、薩摩藩(さつまはん)と会津藩(あいづはん)が長州藩の京都(きょうと)における勢力(せいりょく)を一網打尽(いちもうだじん)。
これで政情(せいじょう)は一新(いっしん)。
天誅組(てんちゅうぐみ)が挙兵(きょへい)するも9月には壊滅(かいめつ)。
龍馬の仲間(なかま)の土佐脱藩士(とさだっぱんし)が討(う)ち死(じ)にします。
土佐では武市が投獄(とうごく)され、1年半後切腹(せっぷく)、土佐勤王党は壊滅状態(かいめつじょうたい)。

10月龍馬は神戸海軍塾塾頭(こうべかいぐんじゅくがしら)に。

1864年(28歳)、土佐藩に前(まえ)の年(とし)にだしていた帰国延期申請(きこくえんきしんせい)が拒否(きょひ)され、故郷(こきょう)にもどり拘束(こうそく)されることを嫌(きら)い、帰国(きこく)を拒否して再(ふたたび)び脱藩。

2月、海舟は長州藩に出張(しゅっちょう)、龍馬も同行(どうこう)します。

5月、龍馬は後(のち)に妻(つま)となるお龍(りょう)と出会(であ)います。

6月、池田屋(いけだや)に潜伏(せんぷく)していた長州藩、土佐藩などの志士(しし)を、新選組(しんせんぐみ)が襲撃(しゅうげき)した池田屋事件(じけん)が勃発(ぼっぱつ)。
長州軍3000人は御所(ごしょ)を目指(めざ)しますが幕府勢力(ばくふせいりょく)に敗(やぶ)れ、長州も英米仏蘭(えいべいふつらん)4か国(こく)の艦隊(かんたい)から砲撃(ほうげき)を受(う)け大打撃(だいだげき)をこうむります。
幕府はこの期(き)に長州征伐(ちょうしゅうせいばつ)を命令(めいれい)。
11月戦(たたか)いに敗(やぶ)れた長州は責任者(せきにんしゃ)の3家老(かろう)が切腹(せっぷく)。
降伏(こうふく)しました。
これらの動乱(どうらん)の最中(さいちゅう)、龍馬とお龍は祝言(しゅくげん)をあげました。

8月中旬(ちゅうじゅん)
海舟の命(めい)をうけ、龍馬は薩摩の西郷隆盛(さいごうたかもり)と面会(めんかい)。
龍馬は西郷の印象(いんしょう)を「少(すこ)し叩(たた)けば少し響(ひび)き、大(おお)きく叩けば大きく響く」と評(ひょう)しています。
その頃、海舟の門下生が長州軍に参加(さんか)していたことなどから、幕府から問題視(もんだいし)されて、軍艦奉公(ぐんかんぼうこう)を罷免(ひめん)され、江戸(えど)へかえることを命(めい)じられました。
龍馬たち門下生(もんかせい)の行き先(いきさき)を憂(うれ)いた海舟は、江戸へむかう前(まえ)に、薩摩藩家老小松帯刀(さつまはんかろうこまつたてわき)に彼(かれ)らの庇護(ひご)を依頼(いらい)します。

1865年(29歳)、海軍操練所(かいぐんそうれんじょ)は廃止(はいし)。
龍馬たちを庇護した薩摩藩は彼らの航海術(こうかいじゅつ)の専門知識(せんもんちしき)を重視(じゅうし)。
彼らに出資(しゅっし)し、龍馬を中心(ちゅうしん)とした、私設海軍(しせつかいぐん)、貿易(ぼうえき)、商社活動(しょうしゃかつどう)などをする亀山社中(かめやましゃちゅう)の組織(そしき)ができます。
また長州藩では高杉晋作(たかすぎしんさく)が挙兵(きょへい)。
ふたたび尊攘派(そんじょうは)が政権(せいけん)を把握(はあく)します。
亀山社中には商用活動(しょうようかつどう)のほかに、仲(なか)の悪(わる)かった薩摩と長州和解(わかい)をうながす役目(やくめ)もありました。
のちに薩長同盟成立(さっちょうどうめいせいりつ)に貢献(こんけん)することになります。
しかしそのころ長州藩には、幕府(ばくふ)の命(めい)をうけて彼(かれ)らを京都(きょうと)からおいやった薩摩、会津両藩に根強(ねづよ)い恨(うら)みがありました。
薩摩のなを下駄(げた)のうらに書(か)き、ふみつけてうっぷんを晴(は)らすやからもいたほどです。
そのなかでも土佐藩脱藩志士(とさはんだっぱんしし)「中岡慎太郎(なかおかしんたろう)」と同志(どうし)「土方久元(ひじかたひさもと)」は薩摩、長州の結束(けっそく)のために活動(かつどう)していました。
龍馬も大村藩(おおむらはん)の志士「*渡辺昇(わたなべのぼる)*」らと会談(かいだん)し、薩長同盟の必要性(ひつようせい)を説(と)きます。
*坂本龍馬、桂小五郎、高杉晋作、西郷隆盛、大久保利通(おおくぼとしみち)ら諸藩(しょはん)の志士と交流(こうりゅう)。
近代剣道(きんだいけんどう)の発展(はってん)に尽力(じんりょく)し、最初(さいしょ)の剣道範士号(けんどうはんしごう)を授与(じゅよ)されました。
長州藩主の命令(めいれい)でさかんに敵(てき)を切り、大佛次郎(おさらぎじろう)の小説(しょうせつ)『鞍馬天狗(くらまてんぐ)』のモデルはこのころの昇(のぼる)という説(せつ)があります。
明治時代(めいじじだい)、大阪知事(おおさかちじ)などをしますが、晩年(ばんねん)はかって自分が切った敵の亡霊(ぼうれい)にくるしめられたといいます*。
渡辺は元練兵所(もとれんぺいじょ)の「桂小五郎(かつらこごろう)」らと親(した)しくしていました。
長崎(ながさき)で龍馬を桂(かつら)とひきあわせます。

龍馬と土方久元は共同(きょうどう)で桂小五郎を説得(せっとく)。
下関(しものせき)で西郷隆盛と会談(かいだん)することを承服(しょうふく)させます。
しかし下関で待(ま)っていたものの、船(ふね)に乗(の)っているはずの西郷はもぬけの殻(から)。
むかえにいった中岡だけがボー然(ぜん)と真っ青(まっさお)になって乗船(じょうせん)していました。

西郷は幕府が長州再征(ちょうしゅうさいせい)に傾(かたむ)くことを阻止(そし)するためにドタキャン。
京都に向かってしまっていました。
恥(はじ)をかかされた桂小五郎は激怒(げきど)。
薩長同盟はもう不可能(ふかのう)かと思(おも)われましたが龍馬と中岡はあきらめず、長州で不足(ふそく)していた武器弾薬(ぶきだんやく)を、亀山社中が薩摩名義(さつまめいぎ)で長州に転売(てんばい)。
薩摩で不足していた米(こめ)を長州名義で回送(かいそう)しました。
これで両藩(りょうはん)の緊急(きんきゅう)の困(こま)りごとが解決(かいけつ)。
お互(たが)いへの不信感(ふしんかん)がやわららいだとみられています。
8月長崎(ながさき)のグラバー商会(しょうかい)から薩摩藩名義(さつまはんめいぎ)での銃器弾薬購入(じゅうきだんやくこうにゅう)を長州藩(ちょうしゅうはん)に斡旋(あっせん)。

9月には長州再征(ちょうしゅうさいせい)の勅命(ちょくめい)には薩摩は、従(したがわ)わないという大久保一蔵(おおくぼいちぞう)の書簡(しょかん)を長州に届(とど)けています。

1866年(30歳)1月とうとう小松帯刀の京都の屋敷(やしき)にて桂と西郷の会談(かいだん)が実現(じつげん)します。
が、話し合いは難航(なんこう)します。
後から到着(とうちゃく)した龍馬はまだ盟約(めいやく)が成立していないことにおどろき、両者(りょうしゃ)を説得(せっとく)。
ようやく、薩摩側が西郷と小松、長州は桂が代表(だいひょう)となり、龍馬が立会人(たちあいにん)になり薩長同盟(さっちょうどうめい)が結(むす)ばれます。
桂にはまだ薩摩にたいする不信(ふしん)があったのですが、帰国途中(きこくとちゅう)、龍馬に盟約を確実(かくじつ)に実行(じっこう)する。
裏書(うらがき)をもらいようやく納得(なっとく)します。
一介(いっかい)の浪人(ろうにん)がいかに信任(しんにん)をえていたかがわかります。

しかし盟約成立(めいやくせいりつ)からまもない1月23日。
龍馬と護衛(ごえい)の長府藩士(ちょうふはんし)三吉慎蔵(みよししんぞう)が泊(と)まっていた伏見寺田屋(ふしみてらだや)で祝杯(しゅくはい)を挙(あ)げていたところに、伏見奉行(ふしみぶぎょう)が踏(ふ)みこみます。
その時(とき)あけ方2時ごろ。
1階(かい)で入浴(にゅうよく)していたお龍がそとの異常(いじょう)を察知(さっち)。
下着(したぎ)1枚で2階にかけあがり2人にしらせました。
踏み込んできた捕り手(とりて)相手(あいて)に、龍馬は高杉晋作から贈(おく)られた拳銃(けんじゅう)で、三好は長槍(ながやり)で応戦(おうせん)。
しかし多勢(たぜい)に無勢(ぶぜい)。
負傷(ふしょう)した2人は逃(に)げだし、龍馬は材木場(ざいもくじょう)に隠(かく)れて、三好は旅人(たびびと)に変装(へんそう)。
伏見薩摩藩邸(ふしみさつまはんてい)ににげこみ助(たす)けを求(もと)めます。
そのおかげで龍馬は奇跡的(きせきてき)に助(たす)けだされました。

深手(ふかで)を負(お)った龍馬は西郷の勧(すす)めで、薩摩の霧島温泉(きりしまおんせん)にお龍を伴(ともな)い療養(りょうよう)に行きます。
2人はのんびりといろいろな温泉(おんせん)や鹿児島(かごしま)を巡(めぐ)りました。
これが日本初(にほんはつ)の新婚旅行(しんこんりょこう)とされています。

5月
長州から兵糧(ひょうろう)500俵(ひょう)をつんだ「ユニオン号(ごう)」が鹿児島に入港(にゅうこう)。
しかし薩摩藩から亀山社中(かめやましゃちゅう)に供給(きょうきゅう)されていた「ワイル・ウエフ号」が遭難沈没(そうなんちんぼつ)。
土佐脱藩の池内(いけうち)ら12名が犠牲(ぎせい)になってしまいました。

6月
幕府は10万を超える兵を投入し第二次長州征伐を開始。
「ユニオン号」で下関に寄港した龍馬も長州藩の求めにより参戦します。
高杉晋作の渡海作戦(とかいさくせん)で龍馬はユニオン号の指揮(しき)をして、最初(さいしょ)で最後(さいご)の実践(じっせん)を経験(けいけん)します。
この戦(たたか)いで、長州藩は西洋(せいよう)の最新式(さいしんしき)の兵器(へいき)を装備(そうび)していたのに、幕府側(ばくふがわ)は旧式(きゅうしき)のものでした。
圧倒的(あっとうてき)な戦力(せんりょく)のちがいで長州藩の連勝(れんしょう)。
おもわしくない戦況(せんきょう)に幕府軍総司令官(ばくふぐんそうしれいかん)、徳川家茂(とくがわいえもち)は心労(しんろう)がかさなり7月大阪城(おおさかじょう)でたおれ、21歳のわかさで亡(な)くなります。

第二次長州征伐(だいにじちょうしゅうせいばつ)は、たちきえとなりました。
勝海舟が長州藩と談判(だんぱん)、幕府軍は兵(へい)をひきます。
亀山社中は「ワイル・ウエフ号」を無(な)くし、「ユニオン号」も長州へ帰(かえ)して、船(ふね)がなくなってしまいます。
このため10月薩摩藩は帆船(ほせん)「対極丸(たいきょくまる)」を亀山社中にあたえます。

徳川家茂の死後(しご)、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)の第15代将軍就任(しょうぐんしゅうにん)を切望(せつぼう)されますが、慶喜は将軍職につきたがらず、徳川家の家督(かとく)のみ継承(けいしょう)しました。

8月中頃龍馬は長崎に来ていた越前藩士(えちぜんはんし)「下山尚(しもやまなお)」に政権奉還策(せいけんほうかんさく)(政権を朝廷(ちょうてい)にかえすこと)を説(と)き、松平春嶽(まつだいらしゅんごく)に伝(つた)えるように頼(たの)みます。
龍馬が政権奉還策(せいけんほうかんさく)を説()いた最初(さいしょ)の記録(きろく)です。
しかし松平春嶽自身(まつだいらしゅうごくじしん)、慶喜(よしのぶ)に政権奉還策を提案(ていあん)して拒否(きょひ)されていました。
12月孝明天皇崩御(こうめいてんのうほうぎょ)。

そのころ土佐藩では尊攘派の土佐勤王党を厳粛(げんしゅく)したものの、このころには時勢(じせい)の変化(へんか)をさっして軍備強化(ぐんびきょうか)を急(いそ)いでいて、長崎で武器弾薬(ぶきだんやく)の購入(こうにゅう)をさかんに進(すす)めていました。
そして、航海(こうかい)と通商(つうしょう)の専門技術(せんもんぎじゅつ)があり、薩摩とも関係(かんけい)のふかい龍馬に目がいきます。

1867年(31歳)1月。
龍馬に接触(せっしょく)を図(はか)り、土佐藩の責任者(せきにんしゃ)「後藤象二郎(ごとうぞうじろう)」と龍馬が会談(かいだん)。
その結果(けっか)、土佐藩は龍馬の脱藩をゆるして、亀山社中を土佐藩の組織(そしき)にすることできまります。

同じ1月、睦仁親王(むつひとしんのう)が明治天皇に。
長(なが)い江戸時代(えどじだい)が終(お)わり明治時代(めいじじだい)が始(はじ)まります。

4月、亀山社中は「海援隊(かいえんたい)」と改名(かいめい)します。
海援隊規約(きやく)によると隊(たい)の目的(もくてき)は、「土佐藩の援助(えんじょ)をうけて土佐藩士や脱藩者、海外事業(かいがいじぎょう)に志(こころざし)をもつものを引き受け、運輸(うんゆ)、交易(こうえき)・開拓(かいたく)・投機(とうき)・。
土佐藩を助(たす)けることなどとされ、海軍(かいぐん)と会社(かいしゃ)をかねたような組織(そしき)」とされていました。

同時期(どうじき)、中岡慎太郎(なかおかしんたろう)は陸援隊(りくえんたい)を結成(けっせい)しています。

海援隊結成からまもなの4月。
海援隊が運航(うんこう)する蒸気船(じょうきせん)「いろは丸(まる)」が瀬戸内海(せとないかい)で、紀州藩(きしゅうはん)の船(ふね)「明光丸(めいこうまる)」と衝突(しょうとつ)。
「いろは丸」は大きく損傷(そんしょう)して沈没(ちんぼつ)。
龍馬は激(はげ)しく抗議(こうぎ)。
紀州側の過失(かしつ)を攻(せ)め「船を沈(しず)めたその償(つぐな)いは金(かね)をとらずに国(くに)をとる」の歌詞(かし)入り流行歌(りゅうこうか)を流行(はや)らせるなどしました。
よほど腹(はら)が立ったのでしょうね。
土佐藩も海援隊を支援(しえん)。
薩摩藩の調停(ちょうてい)により、龍馬が船に積(つ)んでいたと主張(しゅちょう)した銃(じゅう)400丁や金塊(きんかい)などのぶん、賠償金(ばいしょうきん)70,000両(りょう)を紀州藩が支払(しはら)うことでおちつきました。
海軍通商活動以外(かいぐんつうしょうかつどういがい)にも龍馬は、蝦夷地(えぞち)(北海道(ほっかいどう))や竹島(たけしま)の開拓(かいたく)も構想(こうそう)していました。
のちにお龍が自分(じぶん)も行くつもりで北海道の言葉(ことば)を練習(れんしゅう)していたと、思い出(おもいで)を語(かた)っています。
龍馬が生(い)き残(のこ)っていたら、北海道の地(ち)に立(た)つ姿(すがた)がみられたかもしれません。

いろは丸事件が解決(かいけつ)した後、龍馬と後藤象二郎は藩船(はんせん)「夕顔丸(ゆうがおまる)」に乗船(じょうせん)。
長崎を発(た)ち兵庫(ひょうご)へむかいます。

その頃京都では将軍、徳川慶喜と島津久光(しまづひさみつ)、伊達宗城(だてむねなり)(独眼竜伊達政宗(どくがんりゅうまさむね)の子孫(しそん))、松平春嶽、山内容堂(やまうちちょうどう)による四侯会議(しこうかいぎ)が開かれていて後藤(ごとう)も山内に京都によばれていました。
龍馬は「夕顔丸」船内(せんない)で政治綱領(せいじこうりょう)を後藤に見せています。
その政治綱領は後に維新政府(いしんせいふ)の綱領(こうりょう)の実質的(じっしつてき)な原本(げんぽん)になっています。
そのころ中岡慎太郎の仲介(ちゅうかい)によって乾退助(いぬいたいすけ)(のちの板垣退助(いたがきたいすけ))、毛利恭助(もうりきょうすけ)や薩摩の西郷隆盛、小松帯刀らが討幕(とうばく)のための密約(みつやく)をかわしました。
また、続(つず)いて後藤は薩摩藩と会合(かいごう)をもち、薩摩側は西郷、小松、大久保、土佐からは龍馬、中岡、後藤などが代表(だいひょう)となり、王政復古(おうせいふっこ)を目標(もくひょう)とする「薩士盟約(さつどめいやく)」が成立(せいり)しました。

7月。
龍馬が不在(ふざい)の長崎で英国軍艦(えいこくぐんかん)イカロス号の水夫(すいふ)が殺され、海援隊士(かいえんたいし)が疑(うたが)われます。
龍馬と後藤はその対応(たいおう)のために長崎に戻(もど)り、9月まで英国公使(えいこくこうし)パークスとの談判にあたります。
結局(けっきょく)嫌疑不十分(けんぎふじゅうぶん)で嫌疑は晴(は)れるものの、処理(しょり)に時間(じかん)がかかったために薩士両藩(さっしりょうはん)の思惑(しわく)の違(ちが)いから薩士盟約は解消(かいしょう)してしまいます。

イカロス号の事件(じけん)の処理を終(お)えた龍馬は、新式小銃(しんしきしょうじゅう)1000丁余(あまり)りを船に積(つ)んで土佐に運(はこ)び、9月23日5年半ぶりに故郷(こきょう)の土(つち)をふみ、家族(かぞく)と再会(さいかい)します。

10月には入京(にゅうきょう)。
二条城(にじょうじょう)に登城(とじょう)して、容堂、後藤、寺村左膳(てらむらさぜん)、福岡孝弟(ふくおかたかちか)、神山佐多衛(こうやまさだえ)と連名(れんめい)で老中(ろうちゅう)「板倉勝静(いたくらかつきよ)」に大政奉還建白書(たいせいほうかんけんぱくしょ)を提出(ていしゅつ)。
幕府が時勢(じせい)にしたがい政権(せいけん)を朝廷に奉還(ほうかん)することを提案(ていあん)しています。

10月。
戸田雅楽(とだうた)と新政府職制案(しんせいふしょくせいあん)の「新官制擬定書(しんかんせいぎていしょ)」を作成(さくせい)。
龍馬が西郷に見せた名簿(めいぼ)に、西郷の名はあるのに龍馬の名前(なまえ)はなかったと言います。
新政府に入ってはと進める西郷に龍馬は「わしは世界(せかい)の海援隊をやります」と答(こた)えたと言います。
妻(つま)のお龍にも役人(やくにん)になるのは嫌(いや)だと語(かた)ったようです。
その後、後藤象二郎の依頼(いらい)で山内容堂の書状(しょじょう)を持って越前(えちぜん)にいき、松平春嶽の上京(じょうきょう)を促(うなが)して、三岡八郎(みつおかはちろう)と会談(かいだん)した後11月に帰京(ききょう)。

帰京直後(ききょうちょくご)、三岡の新政府入(しんせいふい)りを推薦(すいせん)する後藤象二郎宛(あ)ての手紙(てがみ)を書き、さらに11月10日には福井藩士(ふくいはんし)、中根雪江(なかねゆきえ)宛てに三岡を出仕(しゅっし)させるよう懇願(こんがん)する手紙を書いています。

そして運命(うんめい)の11月15日。
龍馬は宿(やど)にしていた河原町(かわらまち)の醤油商(しょうゆしょう)、近江屋(おうみや)の二階にいました。
当日は陸援隊(りくえんたい)の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎(おかもとけんざぶろう)、画家(がか)の淡海槐堂(おうみかいどう)などの訪問(ほうもん)を受けていました。

午後8時ごろ、中岡と話(はなし)をしていたところ、十津川郷士(とつかわきょうし)と名乗(なの)る男数人(おとこすうにん)が面会(めんかい)を求(もと)め、従僕(じゅうぼく)が取(と)り次(つ)いだところ、男たちはそのまま2階にかけ上がり、従僕の山田籐吉(やまだとうきち)を切り、龍馬たちの部屋(へや)におし入ります。
龍馬はくつろいでいて刀(かたな)をみにつけておらず、ほとんど即死(そくし)に近(ちか)い形(かたち)で殺(ころ)されました。
中岡も2日後、事件(じけん)の顛末(てんまつ)を話した後に死亡しています。
龍馬が苦(くる)しまず死んだと知り安心(あんしん)していたと言います。

龍馬の熟年(じゅくねん)は33歳(満31歳でした)。
亡くなった翌年(よくねん)。
江戸城(えどじょう)が開城(かいじょう)しました。

死後(しご)。
暗殺(あんさつ)には新選組(しんせんぐみ)の関与(かんよ)、または紀州藩(きしゅうはん)による「いろは丸事件」の報復(ほうふく)などと言われました。
12月には報復のため陸奥陽之助(むつようのすけ)らが、紀州藩の三浦休太郎(みうらきゅうたろう)を襲撃(しゅうげき)。
三浦の護衛(ごえい)をしていた新選組と切り合います。
(陸奥陽之助、三浦休太郎共にのちに政治家(せいじか)になっています。。
陽之助はカミソリ大臣(だいじん)とよばれたとか)。

1868年総国流山(ふさのくにながれやま)で出頭(しゅっとう)し捕縛(ほばく)された新選組の近藤勇(こんどういさみ)が土佐藩の強(つよ)い主張(しゅっちょう)によって斬首(ざんしゅ)されます。
おなじく新選組に所属(しょぞく)していた大石鍬次郎(おおいし くわじろう)は龍馬殺害の疑(うたが)いで捕縛され拷問(ごうもん)の末(すえ)に、自分が龍馬を殺したと自白(じはく)しますが、後に撤回(てっかい)します。
しかし新選組説、紀州組説(きしゅうぐみせつ)は濡れ衣(ぬれぎぬ)だったようです。
近藤勇、大石、あわれです・・。
(彼らもたくさん切っていますが)

1870年明治3年に函館戦争(はこだてせんそう)で降伏(こうふく)し、捕虜(ほりょ)になった。
見廻組(みまわりぐみ)の今井信郎(いまいのぶお)が、取り調(しら)べの最中(さいちゅう)、佐々木只三郎(ささき たださぶろう)とその部下(ぶか)6人が坂本龍馬を殺害(さつがい)したと供述(きょうじゅつ)。
いまではこちらが定説(ていせつ)となっています。

墓(はか)は東山区(ひがしやまく)の京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)です。
墓碑(ぼひ)は桂小五郎(かつらこごろう)が書(か)きました。
龍馬の墓は、生前信頼(せいぜんしんらい)しあっていて一緒(いっしょ)に死んだ中岡慎太郎と寄(よ)り添(そ)うように並(なら)んで建(た)っています。
仲(なか)よく並(なら)ぶ銅像(どうぞう)もたっています。
また近江屋(おうみや)で龍馬とともに斬(き)られて亡(な)くなった従僕(じゅうぼく)の山田藤吉(やまだとうきち)(19歳)も龍馬のそばに葬(ほうむ)られています。
同(おな)じ京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)には、桂小五郎(かつらこごろう)(木戸孝允(きどたかよし))、高杉晋作(たかすぎしんさく)、久坂玄瑞(くさかげんずい)の墓(はか)もあります。
また高知県護国神社(こうちけんごこくじんじゃ)と靖国神社(やすくにじんじゃ)にも祀(まつ)られています。

妻(つま)のお龍(りょう)は龍馬の仲間(なかま)の家(いえ)や実家(じっか)に世話(せわ)になりますが、気(き)の強(つよ)い性格(せいかく)で、龍馬の兄夫婦(あにふうふ)とあわず(龍馬の姉乙女とあわなかったという話(はなし)もありますが、その後のお龍によると乙女は親切(しんせつ)にしてくれたと言っています。
兄夫婦が龍馬に出される報奨金(ほうしょうきん)欲(ほ)しさに自分(じぶん)を追(お)い出したといっていたそうです。
本当の所(ところ)は解(わか)りません。

追(お)いだされるように家を出て、生前(せいぜん)龍馬が自分に万(まん)が一のことがあった場合のお龍の処遇(しょぐう)について考えていた、海援隊士の菅野覚兵衛(すがのかくべえ)と結婚(けっこん)した妹の起美(きみ)を頼(たよ)り、嫁(とつ)ぎ先(さき)で世話(せわ)になっていましたが、起美の夫である覚兵衛が海軍省(かいぐんしょう)へ出仕(しゅっし)し、アメリカ留学(りゅうがく)をすることになったため1869年には土佐を離れます。
京都の寺田屋や東京の海援隊メンバー宅(たく)など転々(てんてん)とたらいまわしされます。
しかしどこでも評判(ひょうばん)が悪(わる)く長居(ながい)できませんでした。
どうも海援隊のメンバーを召使扱(めしつかいあつか)いして威張(いば)ってしまったようです。

やがて長屋(ながや)ですみ、勝海舟に紹介(しょうかい)してもらった料亭(りょうてい)で働(はたら)くうちに西村松兵衛(にしむらまつべえ)という男性(だんせい)と再婚(さいこん)。
しかしその夫(おっと)も、夫が亡(な)くなり頼(たよ)ってきたお龍の妹(いもうと)の光江(みつえ)と内縁関係(ないえんかんけい)に、2人はお龍の前(まえ)から去(さ)っていきました。
どうしようもなく貧困(ひんこん)に陥(おちい)ったお龍は退役軍人(たいやくぐんじん)の工藤外太郎に庇護(ひご)されます。
この人がなぜお龍を引き取ったのか、龍馬と何か関(かか)わりあいがあったのかはわかっていません。
ただこの人もとても貧(まず)しかったので、その後もお龍は貧困生活(ひんこんせいかつ)だったようです。

晩年(ばんねん)は私は龍馬の妻だとくだをまき呑(の)んだくれていたそうです。
龍馬に愛(あい)し愛された誇(ほこ)りだけが生きがいだったのかもしれません。
お龍は、男勝(おとこまさ)りで気の強(つよ)い性格(せいかく)で、奔放(ほんぼう)でわがまま、プライドが高(たか)く高飛車(たかぴしゃ)でがんこで威張(いば)り散(ち)らし、当時の女性に求(もと)められていた。
従順(じゅうじゅん)さとはかけ離(はな)れていたようで、世間(せけん)の常識(じょうしき)の枠(わく)からかなりはずれていたようです。
うまく立ち回ることができない不器用(ぶきよう)で、嘘(うそ)をつけない素直(すなお)な性格とも言えそうです。
普通(ふつう)の男なら相手(あいて)にできないお龍を、龍馬は姉・乙女への手紙で『まことに面白(おもしろ)き女』と書きました。
龍馬ほどの大きな度量(どりょう)をもって初(はじ)めて、お龍を『面白き女』と受け止めることが出来たのでしょうか。
死後(しご)は罪滅(つみほろ)ぼしからか元夫(もとおっと)の松兵衛が墓を建(た)ててやります。
墓碑(ぼひ)に「贈正四位坂本龍馬之妻龍子之墓(ぞうせいよんいさかもとりょうまのつまりょうこのはか)」としっかり刻(きざ)まれました。
現在(げんざい)は龍馬の妻として名誉(めいよ)が回復(かいふく)されています。
また龍馬を待(ま)ち続(つづ)けた婚約者(こんやくしゃ)さな子の墓碑(ぼひ)には「坂本龍馬室(しつ)」と彫(ほ)られています。
*一説(いっせつ)に龍馬はADHD(注意欠陥(ちゅういけっかん)・多動性障害(たどうせいしょうがい))だったと言われています。
出した手紙が口述(こうじゅつ)だったり、本人(ほんにん)が書いたものでも文字(もじ)が汚(きたな)く誤字脱字(ごじだつじ)だらけだったり、人が話しているときに聞いていられず居眠(いねむ)りをしたり。
ご飯(はん)をポロポロこぼしたり、袴(はかま)も自分一人ではけなかったとか。
(そういえば有名(ゆうめい)な龍馬の写真(しゃしん)の着物(きもの)もはだけていますがうまく着れなかったから?)
(髪(かみ)もちょんまげを結(ゆ)っているのか結っていないのかわからないほどボサボサ)
袴は仲間(なかま)の志士(しし)にはかせてもらっていたのでしょうか?
それとも従僕(じゅうぼく)の籐吉(とうきち)?
*ちなみに藤吉は元相撲取(もとすもうとり)りだそうです。
大きな従僕に世話(せわ)される小柄(こがら)な龍馬。
何だかかわいいです。
女性にモテモテだったのも母性本能(ぼせいほんのう)をくすぐったからかもしれません。
「おバカさんね」とほっぺたの米粒(こめつぶ)をとってあげたくなります。
一方(いっぽう)でひらめきや話術(わじゅつ)の天才(てんさい)で相手(あいて)の懐(ふところ)に入りこみかわいがられました。

龍馬の死後、坂本家は姉の千鶴(ちづる)の子、直(なお)が家督(かとく)を継(つ)ぎます。
そして明治三十年一族をあげて北海道に移住(いじゅう)。
武市半平太(たけちはんぺいた)の後、武市家を継いだ武市安哉(たけちあんさい)(やすやとも)らとともに、キリスト教精神(きょうせいしん)に基(もとづく)づく自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)を行(おこな)い、理想(りそう)の町(まち)づくりを夢見(ゆめみ)て新天地(しんてんち)である北海道(ほっかいどう)に移住(いじゅう)したようです。
北海道開拓(かいたく)は龍馬の夢(ゆめ)でもありました。
彼(かれ)の夢を子孫(しそん)が叶(かな)えました。

寺田屋事件(てらだやじけん)で龍馬が襲撃(しゅうげき)を受けた時に一緒(いっしょ)にいた三吉慎蔵(みよししんぞう)は龍馬の人となりをこう言っています。
「過激(かげき)なることは毫(ごう)も無(な)し。かつ声高(こわだか)に事(こと)を論(ろん)ずる様(さま)のこともなく、至極(しぎょく)おとなしき人(ひと)なり。容貌(ようぼう)を一見(いっけん)すれば豪気(ごうき)に見受(みうけ)けらるるも、万事温和(ばんじおんわ)に事(こと)を処(しょ)する人なり。但(ただ)し胆力(たんりょく)が極(きわ)めて大(だい)なり」
西郷隆盛(さいごうたかもり)は龍馬を「天下(てんか)に有志(ゆうし)あり、余多(よおお)く之(これ)と交(まじ)わる。然(さ)れども度量(どりょう)の大(だい)、龍馬に如(ごと)くもの、未(いま)だかつて之(これ)を見(み)ず。龍馬の度量や到底(とうてい)測(はか)るべからず」
「直柔(ナオナリ)(龍馬)は真(まこと))に天下(てんか)の英傑(えいけつ)なり」
と言っています。

坂本龍馬の名言(めいげん)
「日本を今一度せんたくいたし申候(もうしそうろう)」
「人の世(よ)に道(みち)は一つということはない。道は百も千も万もある」
「夢中(むちゅう)で日を過(す)ごしておれば、いつかはわかる時が来る」
「おれは落胆(らくたん)するよりも、次(つぎ)の策(さく)を考(かんが)えるほうの人間(にんげん)だ」
「雨(あめ)が降(ふ)ってきたからって走(はし)ることはない。走ったって、先(さき)も雨だ」
「人の世に失敗(しっぱい)ちゅうことは、ありゃせんぞ」
「人間(にんげん)というものは、いかなる場合(ばあい)でも、好(す)きな道、得手(えて)の道を捨(す)ててはならんものじゃ」

クイズ。
坂本龍馬が作(つく)ったのは「海援隊」。
では彼と仲(なか)が良い中岡慎太郎が作ったのは?

1、陸援隊
2、応援隊

答え1

1838年土佐生まれ。
龍馬より2歳年下(としした)です。
自由(じゆう)で気さくな龍馬と違(ちが)い、実着(じっちゃく)でまじめな秀才(しゅうさい)。
2人で幕末(ばくまつ)の土佐を代表(だいひょう)する志士の双璧(そうへき)とされています。

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