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額田王、鏡王女
額田王、鏡王女は「古代王朝、陰謀と戦乱の中、ロマンチックに生きた歌人姉妹」
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「古代王朝、陰謀と戦乱の中、ロマンチックに生きた歌人姉妹」

額田王、鏡王女うんちく

額田王(ぬかたのおおきみ)、鏡王女(かがみのおおきみ)は、日本書紀(にほんしょき)によると鏡王(かがみのおおきみ)のむすめとされています。
鏡王は額田鏡王(ぬかたかがみおう)ともいい「王」が付いていることから、皇族(こうぞく)の血(ち)が流(なが)れているのではないかと考(かんが)えられています。
鏡王女が姉、額田王が妹です。

妹の額田王は「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮も適ひぬ 今は漕ぎ出でな」
(にきたつに ふなのりせむと つきまてば しおもかなひぬ いまはこぎいでな)」
という歌(うた)で有名(ゆうめい)です。
歴史(れきし)の教科書(きょうかしょ)にも載(の)っています。
時代(じだい)は飛鳥時代(あすかじだい)。

ともに歌人(かじん)で、朝廷(ちょうてい)の采女(うねめ)として働(はたら)いていたとも、ちからのある巫女(みこ)だったともいいます。
そしてとても美(うつく)しかったと言います。

当時(とうじ)の力のある巫女は、神(かみ)の声を聞き権力者(けんりょくしゃ)に伝(つた)える、ときに政権(せいけん)すら操(あやつ)る権力者にとって大切(たいせつ)な道具(どうぐ)でもありました。
その一昔前(ひとむかしまえ)、国(くに)をしはいした卑弥呼(ひみこ)もまた、神おろし、占(うらな)いで人(ひと)びとを操(あやつ)っていました。
後世(こうせ)、徳川家康(とくがわいえやす)も力のある僧侶(そうりょ)、天海(てんかい)を傍(そば)から離(はな)しませんでした。
神がかりな力をもつサイキッカーは貴重な(きちょう)な財産(ざいさん)だったのです。
それが愛(あい)からだったのか、巫女としての力を欲(ほっ)したからか、その両方(りょうほう)からか、姉妹もとうじの権力者たちから求められます。

妹の額田王は、さいしょ大海人皇子(おおあまのおうじ)、後の天武天皇(のちのてんむてんのう)と結婚(けっこん)し、あとに奪(うば)われるように大海人皇子の兄、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ )のちの天智天皇(てんちてんのう)と結婚。
姉の鏡王女は、最初、中大兄皇子のつまで、のちに右(みぎ)うでの藤原鎌足(ふじわらのかまたり)にあたえられています。
それは鎌足がつよくのぞんだもののようです。
額田王はもともと大海人、中大兄皇子兄弟の母、皇極天皇(こうぎょくてんのう)の側近歌人(そっきんかじん)として従(したが)えていたようです。

大化元年(たいかがんねん)(645年)頃、大海人に求められ結婚。
また一説(いっせつ)には額田王は、男子(だんし)が成人(せいじん)した時に、年上(としうえ)の女性(じょせい)からえらばれる、「添い臥し(そいぶし)」とよばれる、最初(さいしょ)の妃(きさき)として、皇極天皇に選(えら)ばれたのではないかと考(かんが)えられています。

大海が成人(せいじん)してすぐの16歳、額田は19歳ぐらいだったようです。
*額田の方が年上でした*当時の成人は16でした。
結婚から1,2年で十市皇女(とおちのひめみこ)を生みます。
しかし十市のうまれたしばらく後、大海人の兄である中大兄皇子が額田をほしがります。

「自分の娘二人をお前に嫁(とつ)がせるので額田王を俺にくれ」と要求(ようきゅう)。
娘とは大田皇女(おおたのひめみこ)と鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)です。
*大田皇女(おおたのひめみこ)は後に謀反(むほん)の濡れ衣(ぬれぎぬ)をきせられ処刑(しょけい)される悲劇(ひげき)の大津皇子(おおつのみこ)のお母さんです。

鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)は草壁皇子(くさかべのみこ)のお母さんです。
息子の草壁皇子(くさかべのみこ)を確実に天皇にしたくて、甥の大津皇子(おおつのみこ)を死に追い込んだものの体の弱い草壁皇子(くさかべのみこ)は亡くなってしまい、仕方(しかた)なく自分(じぶん)が夫の天武天皇の後、持統天皇(じとうてんのう)として即位(そくい)します。

自分の敵となる人間を容赦(ようしゃ)なく殺してきた兄の性格を、身近で誰よりも知っていた弟は泣(な)く泣く愛(あい)する妻を、兄にわたします。
その頃、中大兄皇子はこんな歌を詠(よ)んでいます。

「香具山は 畝傍を愛(お)しと 耳成と相争ひき 神代より かくにあるらし 古も しかにあれこそ うつせみも 妻を 争ふらしき」
(かぐやまは うねびををしと みみなしと あひあらそ ひきかむよより かくにあるらし いにしへも しかにあれこそ うつせみも つまをあらそふらしき)

〜香具山(かぐやま)は 畝傍山(うねびやま)がいとしくて 耳成山(みみなしやま)と戦(たたか)った。古代(こだい)からそうだった 昔(むかし)からそうだったのだから 現代(げんだい)でも 妻(つま)をうばいあう〜
幼(おさな)い娘を大海人の元(もと)にのこし、額田はどんな思いで中大兄皇子の妻になったのでしょう?
中大兄皇子は、姉の鏡王女の夫でもあるのです。

その頃
「茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」
(あかねさす むらさきのいき しめのいき のもりはみずや きみがそでふる)
額田王

〜紫草の野を、あっちに行ったりこっちに行ったりしないで。野の番人に見られてしまうではないですか、あなたが私に袖を振るのを〜
袖を振るとは、愛情(あいじょう)や悲(かな)しみをしらせるしぐさと言われています。

それに大海人は
「紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも(むらさきの におえるいもを にくくあらば ひとづまゆえに われこいひやも)」

〜美しいあなたのことを憎いと思っているとしたら、どうして私はあなたのことをこんなにも恋しく思うというのでしょう。
あなたは恋(こい)をしてはいけない人妻だというのに。
*あなたへの恋心(こいごころ)がどうしようもなくあふれているのです。
という有名な歌をかえしています。

またそのころ姉の鏡王女もまだ中大兄皇子の妻でした。
姉妹(しまい)で妻に迎えることは昔は普通にあったことですが、男は良くても、女の立場(たちば)であればお互(たが)いに気まずく辛(つら)いものがあったかもしれません。
しかし姉の鏡王女の運命(うんめい)も大きく変わります。

中大兄皇子は、家臣というよりは盟友(めいゆう)、また親友ともいえる中臣鎌足(なかとみのかまたり)に鏡王女をゆずります。
鏡王女への鎌足の片思いを知ってのこととも言われています。
妻をゆずることで鎌足との結束(けっそく)を強くする思いもあったのでしょう。

その頃の鏡王女の歌。
「たまくしげ覆ふを安み明けていなば君が名はあれど我が名し惜しも」
(たまくしげ おほふをやすみ あけていなば きみがなはあれど わがなしをしも)

〜お化粧箱をふたでおおうように、二人の仲を隠すのはわけないと、夜が明けきってからお帰りになるなんて。
そんなことをなさったら、あなたの評判(ひょうばん)が立つのはともかく、私の浮名(うきな)の立つのが惜しいですわ、ぷんぷん〜
少しすねているような甘えているような歌です。
でも鎌足は鏡王女を館(やしき)に迎(むか)え正妻(せいさい)にしているので、夜(よ)が明(あ)けきって帰るという歌は変(へん)な感(かん)じです。
まだ中大兄皇子の妻だった時からの2人の関係(かんけい)だったのでしょうか?
それとも結婚を許(ゆる)された夜の歌でしょうか?

鎌足はこう返(かえ)しています。
「玉櫛笥みもろの山のさな葛かづらさ寝ずは遂に有りかつましじ」(たまくしげ みむろのやまの さなかづら さねずはつひに ありかつましじ)
〜三室山のさな葛ではないが、さ寝ずに――共寝(ともね)せずに最後までたえつづけるなど、できはしないでしょう〜
「あなたを抱きしめずにはいられない」

歌は分かりにくく下手(へた)くそですが情熱的(じょうねつてき)で鏡王女はドキドキしたでしょうね。

当時の風習(ふうしゅう)としては、夜の明けきらぬうちに帰るのがスマートな男とされていましたが、夜が明けても離(はな)れがたくそばにいるというのも女の立場(たちば)からすればうれしいものではないでしょうか?

もっとも平安時代の歌人「清少納言(せいしょうなごん)」は、夜が明けても帰らない男ほどたまらないものはないと怒っています。

ただ、天智は以前(いぜん)にも采女(うねめ)だったらしい安見児(やすみこ)を鎌足に与えていて、
鎌足は「われはもや安見児得たり皆人(みなひと)の得難(えかて)にすとふ安見児得たり」
〜私は安見児を得た、皆が手に入れられないと言っていたあの安見児を得たのだ〜
と喜んでいます。(相変(あいか)わらず下手な歌です)
当時は何人でも妻を持てたのです。

安見児(やすみこ)については本当のことは何もわかっていません。
多分天智の愛人だったと見られていますが、憶測(おくそく)です。
でもそんなに喜んで天智からゆずられたはずの安見児(やすみこ)は、鎌足の妻の1人としても愛人(あいじん)としても歴史(れきし)にのこっていません。
もしかしたらはやくに亡くなってしまったのかもしれません。
ともかく鎌足の歌としては、鏡王女と、安見児(やすみこ)を詠った、この二つしか伝わっていません。

鎌足には正妻の鏡王女の他に、車持与志古娘(よしこのいらつめ)という女性が奥さんとして伝わっています。
子供は男子2人に女子5人。
そのうち二男で鏡王女との息子という不比等(ふひと)が鎌足の後をを継(つ)ぎます。

天智2年、日本(倭国(わこく))兵は、百済救援(くだらきゅうえん)のために海を渡(わた)り白村江(はくそんこう)で新羅(しらぎ)、唐連合軍(とうれんごうぐん)に大敗(たいはい)してしまいます。
新羅が勢(いきお)いのままに、日本へ攻めてくるかもしれないと、天智は都(みやこ)を大津(おおつ)に移します。
中大兄皇子は、女帝(じょてい)だった母親が崩御(ほうぎょ)した後も、なぜか天皇の位(くらい)にはつかず皇太子(こうたいし)のまま政権を握(にぎ)っていましたがここでようやく即位(そくい)。
天智天皇となります。
そして弟の大海人皇子を跡継(あとつ)ぎの皇太弟(こうたいてい)とします。

実はギスギスしていた大海と天智を鎌足がとりなしていたようで、鎌足の助言(じょげん)で自分の息子でまだ年若(としわか)い大友皇子を跡継ぎにすることはあきらめました。
額田の娘の十市皇女と大友皇子は結婚。
葛野皇子(かどのおうじ)を出産。
しかしその直後の天智8年(669年)鎌足は落馬(らくば)により大怪我(おおけが)。
天智は、当時天皇が家臣(かしん)の家に行き見舞(みま)うなど、異例(いれい)のことながら、大急ぎで鎌足の家へかけつけます。

「何かしてほしいことはないか?なんでもする!」
「申(もう)し上げることはありません。ただ葬儀(そうぎ)は質素(しっそ)におこなってください」

天智は臨終(りんじゅう)の場で、彼に大織冠(だいしょくかん)の位と共に藤原姓(ふじわらせい)を与えました。
以後、鎌足の子孫は藤原家として栄(さか)えていきます。

*大織冠=冠位の最高位(さいこうい)。
歴史上鎌足だけが与えられた人物です。
天智の鎌足への愛が感じられます。

鎌足の死後。
鏡王女は鎌足を本尊(ほんぞん)に、山階寺(やましなでら)を建てます。
この寺が、現在の興福寺(こうふくじ)につながります。

鏡王女は
「神奈備かむなびの石瀬いはせの社もりの呼子鳥いたくな鳴きそ我が恋まさる」
(かむなびの いはせのもりの よぶこどり いたくななきそ あがこひまさる)
〜神なびの石瀬の杜の呼子鳥よ、そんなにひどく鳴かないで。私の恋心がつのってしまう〜

「風をだに恋ふるは羨(とも)し風をだに来むとし待たば何か嘆(なげ)かむ」
〜風の音にさえ、相手の訪れを期待して恋心をつのらせるとはなんと羨ましいことでしょう。風の音に「あの人がいらしたかしら」と待つことができるのに、どうして嘆(なげ)くことがあるのでしょうか〜

この歌は以前妹の額田が歌った。
「君待つと我あが恋ひ居れば我わが宿の簾(すだれ)動かし秋の風吹く」
〜あの方が早くおいでにならないかと、恋しくお待ちしていると、我が家の簾がそよそよと動き――あの方かと思ったけれど、お姿はなく、秋風が吹くばかり〜
を頭に置いて歌ったもののようです。

万葉集(まんようしゅう)には並(なら)んで載っていて、同じ時に連歌(れんか)として、中大兄皇子を思って歌ったものと言われていた時もありましたが、最近(さいきん)の研究(けんきゅう)で、二つの歌には時間の差がわかりました。

鏡王女の、風の音で期待することも出来ない・・。
やはり訪ねてきてくれるとわずかな期待さえ持てないと言うのは、死んだ相手だからという気がします。

では額田の秋風の相手は、中大兄皇子か大海人かどちらだったのでしょう?

兄弟の仲介役(ちゅうかいやく)をしていた鎌足の死後、天智と大海人の仲は破滅(はめつ)に向かって走り出します。

鎌足の死の2年後、今度は天智が重篤(じゅうとく)な状態になります。
第一皇子大友を史上初の太政大臣(だいじょうだいじん)にします。
その職務(しょくむ)は大海人のしていた職務と重なるものでした。
しだいに大海人は宮廷で疎外(そがい)されていきます。

ある日天智は大海人を枕元(まくらもと)に呼び、自分の後を継ぐように伝えます。
しかし、もしホイホイ受けたら謀反(むはん)の意志ありととらえる準備をしているのではないかとあやしみます。
事前に人から警告(けいこく)も受けていた彼は、後を継ぐ気はない、自分は僧(そう)になるつもりだとすぐに剃髪(ていはつ)。
吉野に隠居(いんきょ)します。
しかし天智の家臣は「虎(とら)を野に放ってしまった」と言いました。
はたして天智の死後、大海人が攻め込みます。
大友皇子が弘文天皇(こうぶんてんのう)として即位していたようですが。
(ハッキリしていません)
「壬申の乱(じんしんのらん)」の勃発(ぼっぱつ)です。
そのあらそいの末(すえ)、大友皇子は首(くび)をつり自殺。
大海人が天武天皇となります。

その天武帝は「鎌足が生きておれば、この苦労(くろう)はしなくてすんだのに」ともらしました。
鎌足は彼にとっても、大事な補佐役(ほさやく)になる人物だったのでしょう。
鎌足が生きていてかじ取りをしていれば、壬申の乱はおきず大友皇子も死ななくてすんだかもしれません。
大友皇子の妻の十市と母、額田の悲しみは大変なものだったでしょう。
額田にとっては昔の夫が娘の夫を殺し、十市にとっては父が夫を死に追いやったのです。
ともかく今は大海人のそばにはたくさんの奥さんがいて、気の強い正妻もいて、天智がいなくなり自由になったあともかっての夫のそばに額田の居場所(いばしょ)はありませんでした。

彼女は飛鳥に戻りひっそりとくらしたといいます。
また十市は、大海人の母違いの長子(ちょうし)、高市皇子(たけちのみこ)と恋をしたという話があります。
もともと夫とは不仲で高知皇子と初恋(はつこい)の仲(なか)だったともいいます。
当時母違いの兄妹は結婚も出来ました。
しかし自分の子草壁皇子を天皇にしたい鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)は、二人の結婚をあやぶみました。

今まで高市皇子は母の身分が低いため、跡継ぎとは見られず、安全でしたが十市と結婚すればそれもまた変わるでしょう。

結果。
十市は強引(ごういん)に伊勢(いせ)の斎宮(さいぐう)に選ばれます。
普通は未婚の皇女から選ばれるので異例(いれい)のことです。
斎宮に旅立つ当日、突然十市は死んでしまいます。
父に抗議(こうぎ)した自殺だったと言われています。

高市皇子は亡くなった十市に三首の歌を残しています。
「みもろの 三輪の神杉 已具耳矣自得見監乍共 寝ねぬ夜ぞ多き」
「三輪山の 山辺まそ木綿 短木綿 かくのみゆゑに 長くと思ひき」
「山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく」
いずれも難解で正確な意味が謎です。
十市への愛を隠(かく)した暗号(あんごう)だと言われています。

飛鳥(あすか)の地で娘の死を知った額田の悲しみは大変なものだったでしょう。

鏡王女は天武12年(683年)7月5日に亡くなりますが、その前日(ぜんじつ)、天武が自宅(じたく)へ見舞(みま)いに訪れたと日本書紀(にほんしょき)に書かれています。
忠臣(ちゅうしん)だった鎌足の妻ゆえでしょう。

その後の額田王は謎(なぞ)で、天武天皇の第9皇子の弓削皇子(ゆげのおうじ)と歌のやり取りをした記録(きろく)が残(のこ)っているのみです。

兄と弟、二人の天皇に愛された額田王。
天皇とその臣下、親友同士(しんゆうどうし)のあいだをやり取りされた鏡王女。
どちらが幸せだったのか。
それはわかりませんが、古墳時代から続く飛鳥時代、そのロマンチックな恋で輝(かがや)く星(ほし)のように生きた姉妹でした。

*古い飛鳥時代のこと。
姉妹についていろいろな説がありますが、このうんちくに関しては私の一番好きなロマンチックな説をとりました。
鏡王女については、父の鏡王と同じ読みのかがみのおおきみであることから同一人物という説もあります。

でも万葉集(まんようしゅう)の歌や、天智の元から鎌足の元へ行き正妻になった事実から考えると鏡王女が男性だったなんて変な感じがします。
当時男色(だんしょく)におおらかな文化(ぶんか)だったかもしれませんが、正妻と考えるとやはり女性だったのでしょう。
多分。

男性だったら違(ちが)うロマンを感じます。
額田王の恋は、宝塚(たからづか)など多くの場所で舞台化(ぶたいか)されたり小説にされています。

クイズ。
「人妻ゆえに・・」と、額田王にせつない恋心を歌ったのは誰でしょう?
1、大海人
2、中大兄皇子
3、鏡王女


答え1

「紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも」大海人皇子
〜美しいあなたのことを憎いと思っているとしたら、どうして私はあなたのことをこんなにも恋しく思うというのでしょう。
あなたは恋(こい)をしてはいけない人妻だというのに。
*あなたへの恋心(こいごころ)がどうしようもなくあふれているのです。

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