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キング牧師
キング牧師
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「非暴力で人種差別と闘った人」キング牧師うんちく

1929年1月15日
のちのキング牧師(ぼくし)。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニアはアメリカ合衆国(がっしゅうこく)。
ジョージアナ州(しゅう)アトランタで生(う)まれました。
お父(とう)さんはマーティン・ルーサー・キング、お母(かあ)さんはアルバータです。

彼(かれ)の両親(りょうしん)はアフリカ系(けい)アメリカ人(黒人(こくじん))でお父さんはバプテスト派の牧師(ぼくし)でした。
名前(なまえ)はマイケル・ルーサー・キング。
息子(むすこ)にもミドルネームも含(ふく)め全(まった)く同(おな)じ名前をつけます。

1935年(6歳)の時(とき)、お父さんがマーティン・ルーサー・キングと改名(かいめい)し、息子もマーティン・ルーサー・キング・ジュニアと変(か)えます。
お父さんは息子と区別(くべつ)をつけるために、マーティン・ルーサー・キング・シニアと今では呼(よ)ばれています。
幼(おさな)い頃(ころ)のキング・ジュニアは、姉(あね)のウィリー・クリスティンと弟(おとうと)のアルフレッド・ダニエルと共(とも)に、のどかな街(まち)で何不自由(なにふじゅう)なく育(そだ)ちました。
しかし彼らの生活(せいかつ)におおきく影(かげ)をおとしたものがあります。
人種差別(じんしゅさべつ)です。
特(とく)にアフリカ系アメリカ人への差別(さべつ)は激(はげ)しいものでした。

1863年リンカーンが奴隷解放宣言(どれいかいほうせんげん)をした後(あと)、奴隷(どれい)とされてきた黒人は白人(はくじん)と同(おな)じ市民(しみん)になったはずですが差別は続(つづ)きました。

奴隷解放以前(どれいかいほういぜん)は黒人は物(もの)や動物(どうぶつ)のように売(う)り買(か)いされ、家族(かぞく)は引(ひ)き離(はな)され、たとえ殺(ころ)しても罪(つみ)になりませんでした。

アンクルトムの小屋(こや)の主人公(しゅじんこう)トムの最初(さいしょ)の雇い主(やといぬし)の家(いえ)のように、白人の家庭(かてい)で、奴隷(どれい)とはいえ家族(かぞく)のように受け入れられる場合(ばあい)もあったのですが、それは買ったものの人間性(にんげんせい)によりました。
トムもあとに残忍(ざんにん)な雇い主に買われ、牛馬(ぎゅうば)のように働(はたら)かされたあげく死(し)んでしまいます。
5歳までの幼(おさな)い頃のキング・ジュニアは、隣(となり)りに住(す)んでいた白人家族の双子(ふたご)の兄弟(きょうだい)と、大(だい)の仲良(なかよ)しでいつも一緒(いっしょ)に遊(あそ)んでいました。
彼にとって差別はまだ遠(とお)いものでした。

しかし小学生(しょうがくせい)になった時に、彼らが同(おな)じ小学校(しょうがっこう)にいないことに驚(おどろ)きます。
白人は白人の小学校、黒人は黒人の小学校に分(わ)けられていたのです。
友(とも)だちに会(あ)おうとキング・ジュニアが家(いえ)を訪(たず)ねると、でてきた彼らの母親は「白人と黒人は一緒にもう遊んじゃいけないのよ」と幼い彼に伝(つた)えました。
これがキング・ジュニア、のちのキング牧師が初(はじ)めて直面(ちょくめん)した差別だといいます。
家に帰(かえ)って泣(な)いている息子にお母さんは、「世(よ)の中の規則(きそく)だから仕方(しかた)がないの。でもね、マーティン。自分が白人に劣(おと)るなんて考(かんが)えてはだめ。誇(ほこ)りを持(も)って、頭(あたま)を高(たか)くあげて歩(ある)くのよ」と伝えました。

アメリカの中でも特に南部(なんぶ)では強(つよ)い差別が根付(ねづ)いていました。
南部の多(おお)くの州(しゅう)では黒人は一般公共施設(いっぱんこうきょうしせつ)の利用(りよう)を禁止(きんし)されていました。
学校や公衆(こうしゅう)トイレ、プール、バスなどの場所(ばしょ)において白人と黒人は分けられていました。

キング・ジュニアはその後も、お父さんと靴(くつ)を買(か)いに行って、はき試(だめ)してみようと椅子(いす)に座(すわ)ると、「そこは白人用(はくじんよう)だから」と店主(てんしゅ)に言われたり、別(べつ)の日には、お母さんと買い物(かいもの)に行って街角(まちかど)で待っていると、見知(みし)らぬ白人女性(はくじんじょせい)がつかつかとよってきて「黒人のちび!私(わたし)の足(あし)をふんだわね!」と平手打(ひらてう)ちをされます。
完全(かんぜん)な言いがかりですが、反論(はんろん)することすら許(ゆる)されなかったのです。

そんな差別の中で育(そだ)ったマーティンですが教会(きょうかい)でいつも父(ちち)と、祖父(そふ)(彼も牧師でした)の説教(せっきょう)を聞(き)いて育ちました。
そして早くから平等と同胞愛を信条としていました。
キング・ジュニアは教会が大好きだったと言います。
お母さんのピアノに合わせて賛美歌(さんびか)を歌うのが好きでした。
とても美(うつく)しい声だったと言います。

1942年(14)高校に入学。
そのころ弁論大会(べんろんたいかい)で優勝(ゆうしょう)。
しかしその帰り、バスで白人から席を譲(ゆず)れと強制(きょうせい)され、激(はげ)しい憤(いきどお)りを感じます。

お父さんも差別に対して息子(むすこ)と同じ思いだったのでしょう。
教会で牧師をしながら有色人種地位向上協会(ゆうしょくじんしゅちいこうじょうきょうかい)の指導者(しどうしゃ)として社会運動(しゃかいうんどう)をしていました。
キング・ジュニアの胸(むね)にも熱(あつ)い思いが燃(も)えます。

自分も差別され虐(しいた)げられている黒人たちの地位向上のために尽(つ)くしたいと、成績(せいせき)がずばぬけて良かった彼は、15歳でモアハウス大学(だいがく)に合格(ごうかく)。
大学では白人の友人もできて楽しく過ごしました。
ところが夏休(なつやす)み、彼らと一緒(いっしょ)にアルバイトをすると、白人も黒人も汗(あせ)だくで働いているのに、給料(きゅうりょう)は白人の半分(はんぶん)以下(いか)でした。
そのせいで仲の良かった友人たちと気まずくなってしまい、彼の心は深(ふか)く傷(きず)つきます。
このとき彼は差別が黒人だけでなく白人の心も傷つけるものだと痛感(つうかん)しました。
彼は将来、法律家(ほうりつか)と聖職者(せいしょくしゃ)、どちらになるか迷(まよ)いまが、父と同じ聖職者(せいしょくしゃ)になることを決心(けっしん)します。

1947年(20)には牧師の資格をとり、1948年(21)に卒業し、さらにペンシルバニア州の神学校(しんがっこう)に入学。
さらに3年間大学院生として学びました。

1949年インドの指導的人物(しどうてきじんぶつ)ガンジーが暗殺(あんさつ)されたというニュースが世界(せかい)を駆(か)け巡(めぐ)りました。
多(おお)くの人が非暴力主義(ひぼうりょくしゅぎ)によって差別と闘(たたか)ったこの偉大(いだい)な人の死を悲しみました。
その年のクリスマスに、ハワード大学学長(だいがくがくちょう)のジョンソン博士(はくし)の呼びかけで、世界平和者会議(せかいへいわしゅぎかいぎ)がインドで開かれ、宗派(しゅうは)を超(こ)えて34カ国から人々が集(あつ)まりました。
博士は、ガンジーが非暴力をもって差別という悪と闘った、その尊(とおと)い意志(いし)を引き継いで、自分たちもまた非暴力によって、この国を引き裂(さ)いている人種差別と闘うべきではないかと述(の)べました。
この会議に出席(しゅっせき)した若きマーティン青年(せいねん)は、強く感動しました。
彼はイエスの「右の頬(ほお)を打たれたら左をも差し出しなさい」「迫害(はくがい)する者を呪(のろ)わずに祝福(しゅくふく)してあげなさい」という教(おし)えと、ガンジーの信念(しんねん)がとても似ていることに気付きます。
(そうだ。私は、聖書が教える愛をもってこの悲しむべき差別主義と闘おう)

1951年(23)神学校(しんがっこう)を卒業(そつぎょう)。
神学博士(しんがくはくし)の学位(がくい)を取り、さらにボストン大学大学院(だいがくだいがくいん)で勉強します。
ボストン大学神学部で博士号(はくしごう)をえました。
ボストン大学在学中マーティンが飲食店(いんしょくてん)に入ったさい、黒人であることを理由に白人の店員(てんいん)が注文(ちゅうもん)を取りに来ない事件がありましたが、同店(どうてん)のあるボストン北部ではこのような行為(こうい)を週法(しゅうほう)で禁(きん)じていたため店員は人種差別で即逮捕(そくたいほ)されました。
南部出身で人種差別をいつも受けていた彼は、むしろとても驚(おどろ)いたと言います。

ボストン大学に在籍中(ざいせきちゅう)コレッタ・スコットと知り合います。
彼女は価値観(かちかん)や考えがキング・ジュニアとピッタリ合っていてお互(たが)いに強く惹(ひ)かれあいます。
知り合って1年後の1953年二人は結婚します。
彼女は後のキング牧師のよき理解者(りかいしゃ)であり、活動(かつどう)をささえました。

1954年(27)にアラバマ州モンゴメリーの教会の牧師に就任(しゅうにん)。
キング牧師の誕生(たんじょう)です。
この地に赴(おもむ)いたことが彼の人生(じんせい)を大きく変えていきます。

1年間は平穏(へいおん)な牧師生活をおくりつつ、まずはお父さんが指導(しどう)するNAACP(有色人種地位向上協会)の地元支部(じもとしぶ)に属(ぞく)し、差別撤回運動(さべつてっかいうんどう)を展開(てんかい)する準備(じゅんび)を整(ととの)えていました。

モンゴメリーの街(まち)では4割(わり)が黒人でした。
黒人に許される仕事はわずかしかなく、男性は日雇(ひやと)いの雑役夫(ざつやくふ)か肉体労働(にくたいろうどう)、女性は白人の家のメイドぐらいでした。
したがって黒人家庭の多くはとても貧(まず)しかったのです。
白人のほとんどが車を持っていましたが、黒人は車を持てず、バスの乗客(じょうきゃく)のほとんどが黒人でした。
しかしこのバスでさえ白人優先(はくじんゆうせん)でした。
白人はどのドアからも自由(じゆう)に出入りでき、広々(ひろびろ)とした前の席(せき)に座(すわ)れました。
黒人は後ろの窮屈(きゅうくつ)な黒人用の席しか許されませんでした。
そのうえ黒人用の席も、白人が座りたいと言えば、お年寄(としよ)りであろうが妊婦(にんぷ)であろうが障碍者(しょうがいしゃ)であろうが、幼(おさな)い子供であろうがすぐにゆずらなければいけないきまりでした。
これでもかこれでもかというような差別です。
しかも強烈(きょうれつ)な悪意(あくい)のあるいじめのような差別は法律(ほうりつ)で決められたものでした。

1955年8月シカゴから来た14歳の黒人少年エメット・ティルが、ミシシッピで白人女性に口笛(くちぶえ)を吹(ふ)いたというだけで、その夫(おっと)や友人たちに誘拐(ゆうかい)され、目をえぐりだすなどの残酷(ざんこく)なリンチを受け体を切断(せつだん)され殺されます。
エメットのお母さんは事実(じじつ)を知らしめるために棺(ひつぎ)の蓋(ふた)をせずに葬儀(そうぎ)を行いました。
黒人たちは激(はげ)しく怒(おこ)り、「連邦政府(れんぽうせいふ)は黒人の権利(けんり)を保障(ほしょう)せよ」と運動しますが、裁判所(さいばんしょ)も白人たちの陪審員(ばいしんいん)も全(まった)く無視(むし)。
白人の犯人たちは殺人を犯したにもかかわらず無罪(むざい)となります。

その頃キング牧師の前任(ぜんにん)の*ヴァーノン・ジョンズ牧師*もバスで白人により屈辱(くつじょく)を受けます。
彼がバスで白人専用の席に座ろうとすると、運転手はバスを止めて、後ろの席に移(うつ)るよう命(めい)じた。
彼が拒否(きょひ)すると、運転手は怒(おこ)って、料金(りょうきん)を返すこともせずに彼をバスから引きずり降ろして、そのまま行ってしまいます。

*キングと同じく差別に立ち向かった牧師。
キング牧師の前任(ぜんにん)の牧師でしたが、街の女性が警官(けいかん)にレイプされたのをきっかけに、白人を挑発(ちょうはつ)する説教(せっきょう)を繰(く)り返し解任(かいにん)されます。
彼の活動は「怒りをわれらに」という映画(えいが)になっています。*

ある日には、キング牧師の所に、クローデット・コルビンという女子高生(じょしこうせい)が泣(な)きながらやってきました。
バスがすごく混(こ)んでいたので後ろの黒人用の席に行けず、しかたなく白人用の席に座ったところ、運転手は他の白人と一緒に彼女をしばりあげ、警察に突き出されたと言います。
彼女は一週間も刑務所(けいむしょ)に入れられました。
彼女は泣きながら訴(うった)えます。
どうして黒人というだけでこんなさべつをされないといけないのか。
キングが所属(しょぞく)しているNAACPには、このような訴えが日々寄(よ)せらていました。

1955年12月。
モンゴメリーの下町(したまち)でお針子(はりこ)をしている黒人女性のローザ・パークスがバス内(ない)で白人に席を譲(ゆず)らなかったと逮捕(たいほ)されます。
彼女は足がとても痛(いた)かったのです。
しかし警察官(けいさつかん)は乱暴(らんぼう)に彼女を縛(しば)り上げ連行(れんこう)しました。
ローザは人柄(ひおがら)がやさしく誰(だれ)からも慕(したw)われていたので、これを聞いた黒人たちは激(はげ)しく怒りました。

逮捕をを知ったキング牧師はいきどおりました。
事件に抗議(こうぎ)して「モンゴメリー・バス・ボイコット事件(じけん)」運動を計画(けいかく)。
運動の先頭(せんとう)に立ちます。
「出勤(しゅっきん)、買い物、登校(とうこう)、その他(た)どこへ行くにもバスには乗らないこと」
この運動は382日間も続きました。

黒人たち、そしてそれに賛同(さんどう)する白人たちが自家用車(じかようしゃ)などでネットワークを結(むす)び抵抗(ていこう)を続けます。
また黒人タクシー会社(かいしゃ)と話し合い、バスと同じ10セントで市内(しない)のどこでも乗せてもらえるように話し合いました。
ボイコットを始(はじ)めた日、始発(しはつ)のバスからキング牧師が見守(みまも)っている間、誰(だれ)も乗る人はいませんでした。
キング牧師と仲間(なかま)はローザ・パークスを裁(さば)く法廷(ほうてい)に乗り込みますが、有罪(ゆうざい)の判決(はんけつ)を受け10ドル以上の罰金刑(ばっきんけい)となりました。
その夜教会には4000人以上が集(あつ)まります。

キング牧師の演説(えんぜつ)です。
「今夜(こんや)われわれがここに集まったのは、これまで長い間差別され、侮辱(ぶじょく)され、虐待(ぎゃくたい)されてきたことにもはや耐(た)えられないということを、身をもって示(しめ)すためであります。民主主義(みんしゅしゅぎ)の栄光(えいこう)の一つは、権利(けんり)のために抗議(こうぎ)することです」

白人市民会議(はくじんしみんかいぎ)やKKK団(だん)、(黒人を排斥(はいそ)するための秘密結社(ひみつけっしゃ))は私たちの抗議に耳を貸(か)さず、この社会に人種差別という悪を永続(えいぞく)させるために必死(ひっし)で妨害(ぼうがい)しています。
しかし、われわれの抗議の方法は彼らのやり方とは違うことを見せなくてはなりません。
われわれは、十字架(じゅうじか)を焼いたり、白人を家から引きずり出して殺害(さつがい)したりするようなまねはしません。
脅迫(きょうはく)も侮辱(びじょく)もしません。
私たちはキリスト教の深い教理(きょうり)に従って行動(こうどう)しなくてはならないのです。
今ここで、幾世紀(いくせいき)を隔(へだ)てて、再(ふたた)びイエスの言葉に耳を傾(かたむ)けなくてはなりません。
『あなたの敵(てき)を愛しなさい。あなたを呪(のろ)う者を祝福(しゅくふく)しなさい。
あなたを虐(しいた)げる者のために祈(いの)りなさい』――これであります。
いかに不当(ふとう)な扱(あつか)いを受けようとも、恨(うら)みを抱いて白人のきょうだいを憎(にく)むようなことをしてはならないのです」

拍手喝采(はくしゅかっさい)は会堂(かいどう)を揺(ゆ)るがせた。
それに感動(かんどう)した、白人の老婦人(ろうふじん)が、雑誌(ざっし)に崇高(すうこう)な精神(せいしん)をたたえる文を投稿(とうこう)し掲載(けいさい)されました。
キング牧師たちの運動は一躍(いちやく)世界の注目(ちゅうもく)を集(あつ)めます。
しかしデモ参加者たちは非暴力で運動をしたにもかかわらず、不平等(ふびょうどう)な法律を変えることを望(のぞ)まない人々に絶え間なく脅迫(きょうはく)や攻撃(こうげき)をうけました。

モントゴメリー市長のゲイルは「人種差別主義団体」に加盟(かめい)します。
差別をしたい側の白人たちはキング牧師たちが地位向上委員会の資金(しきん)を着服(ちゃくふく)し高級車(こうきゅうしゃ)を乗り回しているという嘘を言いふらします。
会の分裂(ぶんれつ)を心配したキング牧師は脱退(だったい)する考えをあかしますが全員に引き留(と)められます。
黒人たちの結束(けっそく)は固(かた)くボイコットは強化(きょうか)されます。
しかし市長のゲイルはテレビを通してボイコットを非難(ひなん)、白人経営者(けいえいしゃ)たちに大がかりな妨害(ぼうがい)や嫌(いや)がらせをけしかけます。

仕事(しごと)を失(うしな)うことを恐(おそ)れた黒人たちの中から脱落者(だつらくしゃ)が出てきます。
白人たちの行動(こうどう)はエスカレート。
ギャングを雇(やと)いキング牧師の家に脅(おどか)しの電話を何度(なんど)もかけさせます。
妻のコレットや子供たちはおびえました。
キング牧師も精神的(せいしんてき)に追いつめられます。

ある日彼の家にまた脅かしの電話がかかってきます。
家を爆破(ばくは)させて家族ごと木っ端(こっぱ)みじんにするという恐ろしい電話でした。
電話が切れた後、彼の力は尽(つ)き、残る勇気(ゆうき)はひとかけらもなくなったように感じました。

その時です。
突如(とつじょ)彼は今まで感じたことのないような聖(せい)なる存在(そんざい)を心の中に感じます。
その声は、言いました。
「正義(せいぎ)のために戦(たたか)いなさい。恐れることはない。神は永遠(えいえん)にあなたに味方(みかた)するだろう」
たちまち恐怖心(きょうふしん)は氷(こおり)のように溶(と)け去(さ)り、心の奥底(おくそこ)から新しいエネルギーが湧(わ)き出し、力がみなぎりました。
それから3日後に予告(よこく)通り彼の家に爆弾が投げ込まれましたが、幸い家族は留守(るす)にしていました。

キング牧師はは落ち着き払ってこの報(ほう)を受けます。
爆破のニュースはあっという間に町に広まりました。
家は跡形(あとかた)もなく崩(くず)れ、黒焦(くろこ)げになった残骸(ざんがい)が飛び散(ち)る現場(げんば)に消防士(しょうぼうし)や警察、そしてゲイル市長までが駆けつけてきました。
打ちひしがれる牧師を笑ってやろうというものもいたのかもしれません。
黒人の中には「おまわりを叩(たた)き殺せ!」、そう叫ぶ者がいました。
しかし、キング牧師は両手(りょうて)を挙(あ)げて彼らを静(しず)めて話しました。
「みなさん、お静かに。武器(ぶき)を持っている人がいたら、家に持ち帰りなさい。暴力で仕返(しか)しをしても少しも解決(かいけつ)しません。白人のきょうだいが何をしようとも、私たちは彼らを愛さねばなりません。私たちが彼らを愛していることを、彼らに知らせなくてはなりません。かつてイエスが言われたように、『敵を愛し、あなたを虐(しいた)げる者のために祈りなさい』という教えを守ること――それこそが私たちの生きる道です。憎(にく)しみには愛をもって報(むく)いなくてはなりません」

一瞬(いっしゅん)あたりは静まり返り、次の瞬間(しゅんかん)怒涛(どとう)のような拍手(はくしゅ)が湧き起こりました。
「あんたの上に神様のお恵(めぐ)みがあるように」
一人の黒人の老女(ろうじょ)が感動して叫びます。
そして、一同は静かに去っていきました。
今やキングは、黒人運動の精神的指導者(せいしんてきしどうしゃ)として、広くその名を知られるようになったのです。

その彼の所にCORE(人種平等会議)(じんしゅびょうどうかいぎ)の役員(やくいん)*ベイヤード・ラスティン*と、FOR(人種融和会)(じんしゅゆうわかい)のグレン・E・スマイリーがやってきて、働(はたら)くようになったことは心強いことでした。

*ベイヤード・ラスティン*
キング牧師の登場前(とうじょうまえ)から黒人たちの権利(けんり)のために運動をしていました。
公民権運動の場にはいつも彼の姿(すがた)がありました。
キング牧師をずっと兄のように支(ささ)えたと言います。
同性愛者(どうせいあいしゃ)であったために同性愛者の権利のためにも戦いました。
そのためキング牧師とうわさを流され自(みずか)ら距離(きょり)をおいたこともありますが、いつも彼を支持し、陰日向(かげひなた)となり支えました。
そして彼自身も最後(さいご)の最後まで非暴力で戦い続けた人です*

白人市民会はしつように反発(はんぱつ)を続け、ある上院議員(じょういんぎいん)はとんでもないことですが、「そもそも黒人は白人に隷属(れいぞく)するように造(つく)られたのだから、すべての白人は生まれながらにして黒人を殺す権利と自由を与えられている」などと演説しました。
そんな中でも黒人たちの権利を求める運動は広がっていき、とうとう1956年(29)連邦最高裁判所(れんぽうさいこうさいばんしょ)からバス車内での人種分離法違憲判決(じんしゅぶんりほういけんはんけつ)を勝ち取りました。

抗議運動は成功をおさめます。
モンゴメリー・バス・ボイコット事件は、公民権運動に一般(いっぱん)の民衆(みんしゅう)が参加した初めての運動でした。
この成功により公民権運動はアメリカ全土に広がっていきます。
勇気ある抗議をしたローザ・パークスは後に「区民権運動の母」と呼ばれるようになりました。

その頃キング夫妻は、アフリカ、ガーナのエンクルマ首相からまねかれ、独立式典(どくりつしきてん)に出席(しゅっせき)。
首相(しゅしょう)は「戦いは終わった。我(われ)らの愛する国ガーナは永遠(えいえん)に自由だ」と宣言(せんげん)しました。
自分たちの祖先(そせん)が奴隷として狩られた祖国(そこく)が自由になった。
キング牧師は激しく感動します。
そしてこれからの戦いに勇気をもらいます。

キング牧師はこれ以降、教会の牧師をしながら、全米各地で公民権運動のリーダーになっていきます。
バスの人種分離(じんしゅぶんり)は多くの不公平の一つに過ぎなかったのです。
黒人は住宅、賃金、雇用機会(こようきかい)、投票権(とうひょうけん)など、あらゆる場面で差別されていました。
多くのホテルやレストランでは黒人の客を拒(こば)んでいました。
バスのボイコットで不平等(ふびょうどう)と差別、キング牧師の指導力(しどうりょく)に世界中の注目(ちゅうもく)が集(あつ)まりました。

5月17日には自由のための祈りの巡礼(じゅんれい)というイベントをリンカーン記念堂(きねんどう)で開催(かいさい)。
全米各地(ぜんべいかくち)から3万7000人もの人々が集まりました。
その中には著名人(ちょめいじん)も多数(たすう)参加していました。
キング牧師が語りだすと群衆(ぐんしゅう)は総立(そうだ)ちで聞き入りました。
「われわれに参政権(さんせいけん)を与(あた)えてください! そうすれば、われわれは暴徒(ぼうと)たちに秩序(ちつじょ)を与え、善良(ぜんりょう)な市民に変えてみせましょう。われわれに参政権を与えてください! そうすれば、われわれは議会(ぎかい)を善良な人々で満(み)たします」
「みなさん、われわれは愛の秩序(ちつじょ)により、自由を勝ち取るための行動(こうどう)を起こしたのです。決してわれわれを弾圧(だんあつ)する者たちに手向(てむ)かってはなりません。相手(あいて)を憎(にく)めば、新しい秩序も古いそれと変わりがなくなります。われわれは憎しみには愛を、暴力(ぼうりょく)には精神(せいしん)の力をもって報(むく)いなくてはなりません」

カリフォルニア、アイオワ、メリーランド、ミズリー各州(かくしゅう)の知事(ちじ)は、5月17日を「巡礼(じゅんれい)の日」と定(さだ)め、ロサンゼルスやニューヨークの市長もこれにならいました。

1957年(30)
牧師グループで人種差別に対抗(たいこう)する非暴力闘争(ひぼうりょじゅとうそう)を推進(すいしん)するために、南部キリスト教指導者会議(きょうしどうしゃかいぎ)を設立(せつりつ)。
キングの名は国内外に響(ひび)きます。

いくつかの財団(ざいだん)によって賞(しょう)が与えられ、3つの大学から名誉学位(めいよがくい)が与えられました。
キング牧師は57年中に200回を超える講演(こうえん)をします。
そして執筆活動(しっぴつかつどう)も始(はじ)めました。
しかし苦難(くなん)が次々に彼の身にふりかかります。

1958年(31)
友人の牧師が裁判(さいばん)で証言(しょうげん)するのを傍聴(ぼうちょう)しに裁判所に行くと、警官(けいかん)が「黒ん坊め!とっとと出て行かないと牢(ろう)にぶち込むぞ!」とつめよります。
キング牧師は友人の弁護士(べんごし)に話をつけてもらおうとしたのですが、うむをいわさず腕(うで)をねじ上げられ逮捕(たいほ)されました。
その時は幸いにもその日のうちに釈放(しゃくほう)。

その2週間後の1月。
ハーレムにある靴屋(くつや)で自書(じしょ)にサインをしていると黒人女性がいきなり彼の胸をペーパーナイフで刺すという、暗殺未遂(あんさつみすい)にあいます。
3時間にわたる手術(しゅじゅつ)でようやく一命(いちめい)をとりとめました。

9月には長男のマーティン・ルーサー・キング3世が誕生(たんじょう)。

1960年(33)
1月モントゴメリー教会を辞任(じにん)。
家族とともにアトランタのエベニーザ教会のそばに引っ越します。
心労(しんろう)の多い日々でしたが、正義(せいぎ)の灯(ひ)は少しずつ人々の胸にともり、広がり始めます。

ノース・カロライナの大学の学生の黒人青年が駅食堂(えきしょくどう)で「ここは黒人に食べさせない」と追い払われます。
友人たちは「キング牧師の運動に参加しよう、非暴力で戦おう!」、ボイコット運動を決意(けつい)しました。
彼らは1日食事(しょくじ)を出されないままランチ・カウンターに座り続け、やがてその行動に白人学生も参加(さんか)し、学生の参加者がどんどん増(ふ)え、新聞(しんぶん)やテレビでも注目(ちゅうもく)を集めるようになります。
10日目には座り込み運動は10の街(まち)に広がり、2週間たつとサウス・カロライナ、テネシー、バージニアの各州(かくしゅう)に飛び火しました。
逮捕者(たいほしゃ)も出ましたが、それはかえって学生たちの結束(けっそく)を強めました。
理解(りかい)と応援(おうえん)も広がっていきます。
一部の店では店主が黒人にランチカウンターを解放(かいほう)しました。
また学生を下宿(げしゅく)させている家庭でも白人、黒人分け隔(へだ)てなく受け入れようという動きが広まります。
暴力で抑(おさ)え込もうとする圧力(あつりょく)の中で、学生たちはキング牧師に習(なら)い徹底(てってい)して非暴力で立ち向かいました。

3月15日
警察側(けいさつがわ)は催涙弾(さんるいだん)や消防(しょうぼう)ポンプの放水(ほうすい)でデモを鎮圧(ちんあつ)。
デモ隊の中には盲目(もうもく)の少女や身体障碍者(しんたいしょうがいしゃ)もいたと言いますが、容赦(ようしゃ)なく地面(じめん)に叩(たた)きつけました。
500人以上が逮捕されずぶぬれのまま留置所(りゅうちじょ)に監禁(かんきん)されました。
しかし彼ら彼女たちはは賛美歌(さんびか)を歌い、祈り、暴力に耐(た)えました。
そんな中、教会にズカズカやってきた保安官(ほあんかん)によって、キング牧師は不当(ふとう)逮捕されます。
裁判による激(はげ)しい論争(ろんそう)、陪審員全員(ばいしんいんぜんいん)白人の中で奇跡(きせき)が起きます。
キング牧師の無罪(むざい)が告(つ)げられたのです。
座り込みは南部全域(ぜんいき)に広がり各都市で大きな成果(せいか)をあげました。

1961年にはジョージア州オールバニで解放運動を指導(しどう)しますが、オールバニ市側の功名(こうみょう)な対策(たいさく)により失敗(しっぱい)。
運動が失敗したことでキング牧師は運動の戦略を練り直し、別の都市で運動を再び行うことにしました。
新たな運動の場所はアラバマ州のバーミングハムでした。
当時バーミンガムは人口の7割が黒人だったのですが、南部の中でも人種差別の激しい場所として知られていました。
このバーミンガム運動は大きな成功を収(おさ)めます。
成功のカギは、バーミングハム側があまりに暴力的に彼らを排除(はいじょ)しようとしたからです。
当時の警察署長(けいさつしょちょう)のブル・コナーは丸腰(まるごし)の黒人青年に警察犬をけしかけて襲(おそ)わせたり、警棒(けいぼう)で滅多打ち(めったうち)にしたり高圧(こうあつ)ホースで水をかけたりの暴挙(ぼうきょ)をおこないました。
白人の暴徒たちも黒人たち、応援してデモに参加した白人たち、デモに参加していない黒人たちにまで激しい暴力をむけました。
黒人を憎(にく)むKKK団も執拗(しつよう)に彼らを襲(おそ)いました。
黒人が灯油(とうゆ)を浴(あ)びせられ火だるまにされる事件まで起きました。
州の警官は助けるどころか暴徒(ぼうと)の側だったのです。
キング牧師も教会で集会のさい暴徒に教会の周(まわ)りを取り囲(かこ)まれ、窓は投石(とうせき)で割(わ)られて危ない目にあいました。

このような警官(けいかん)や暴徒(ぼうと)による非人道的(ひじんどうてき)な暴力は、テレビや新聞(しんぶん)を見た人々にショックを与(あた)えました。
非暴力の黒人たちへの野蛮(やばん)な暴力は人々に嫌悪(けんお)感をもたせました。
長距離(ちょうきょり)バスではこのような張(は)り紙がされました。
「州商業委員会(しゅうしょうぎょういいんかい)の命(めい)により、座席には人種、肌色、信条(しんじょう)、国籍(こくせき)の区別(くべつ)なく座ることを許可(きょか)します」
彼らは自由と平等(びょうどう)のための一つの戦いに勝ったのです。

キング牧師はさらなる黒人の地位向上(ちいこうじょう)のためにデモ行進(こうしん)をおこないますが、警官に無許可(むきょか)のままデモをしたと捕(とら)えられます。
しかし同じく公民権運動家(こうみんけんうんどうか)の歌手ハリーが保釈金(ほしゃくきん)を払い釈放(しゃくほう)され、ただちに活動(かつどう)にもどります。
学生たちによるボイコット運動も勝利(しょうり)をおさめ始めます。
ボイコットで売り上げが激(はげ)しく下がった商店主(しょうてんしゅ)たちが差別撤廃運動(さべつてっぱいうんどう)に協力(きょうりょく)するようになったのです。
「白人用」「黒人用」の看板(かんばん)が取り払われます。
しかし白人至上主義者(はくじんしじょうしゅぎしゃ)たちの妨害(ぼうがい)はより暴力的(ぼうりょくてき)になり、非暴力の黒人女性を暴行(ぼうこう)したり、集団(しゅうだん)でリンチを加(くわ)えたり、黒人の子供たちまでひどい暴力を受けました。

ある教会では爆弾(ばくだん)が投げ込まれ黒人の少女4人が亡(な)くなりました。
その死の痛みにキング牧師は死ぬまで苦(くる)しんだと言います。

しだいに黒人たちの心に、非暴力に対する疑念(ぎねん)と白人たちへの増悪(ぞうお)の気持ちが湧(わ)いてきました。
彼らの忍耐は限界まで来ていました。
しかしキング牧師は希望を持っていました。
当時のケネディ大統領(だいとうりょう)が差別を嫌悪(けんお)していて、キング牧師の活動に好意的(こういてき)だったからです。

キング牧師の提唱(ていしょう)した運動の特徴(とくちょう)は徹底(てってい)した非暴力主義でした。
非暴力的な抗議(こうぎ)の持つ力を強く信じていたからです。
それは彼が尊敬(そんけい)したインド独立(どくりつ)の父マハトマ・ガンジーにならったのと、キング牧師自身の素養(そよう)によるものでしょう。
キング牧師の活動は支配者(しはいしゃ)たちが、黒人たちは現状(げんじょう)に満足(まんぞく)していると大衆(たいしゅう)に言いふらして来たことが嘘(うそ)であると全世界にハッキリさせることが目標(もくひょう)でした。

やがて運動は、人種差別政治(じんしゅさべつせいじ)を行う州政府や警察など権力との戦いに発展(はってん)していきました。
人種差別撤廃(てっぱい)に肯定的(こうていてき)な北部各州(ほくぶかくしゅう)ではなく南部各州との戦いでした。

1963年8月
リンカーンの奴隷解放宣言(どれいかいほうせんげん)100年を記念(きねん)する大集会(だいしゅうかい)を企画(きかく)。
8月28日のワシントン大行進(だいこうしん)は参加者が200万人を超(こ)えました。
芸能人などの多数の有名人も参加(さんか)。
この集会でキング牧師は、リンカーン記念堂の前で有名な演説(えんぜつ)を行います。
「I Havea Dream」(私には夢がある)
「絶望(ぜつぼう)の谷間(たにま)でもがくことをやめよう。
友(とも)よ、今日私は皆(みな)さんに言っておきたい。
われわれは今日も明日も困難(こんなん)に直面(ちょくめん)するが、それでも私には夢(ゆめ)がある。
それは、アメリカの夢に深(ふか)く根ざした夢である。
私には夢がある。
それは、いつの日か、この国の国民(こくみん)が立ち上がり、「われわれは、すべての人間は平等(びょうどう)に造(つく)られいることを自明(じめい)の真理(しんり)とみなす」という、この国の信条(しんじょう)を真の意味で実現(じつげん)させるという夢である。
私には夢がある。
それは、いつの日か、ジョージア州の赤土(せきど)の丘(おか)で、かつての奴隷(どれい)の息子(むすこ)たちとかつての奴隷所有者(どれいしょゆうしゃ)の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。
私には夢がある。
それは、いつの日か、不正(ふせい)と抑圧(よくあつ)の炎熱(えんねつ)で焼(や)けつかんばかりのミシシッピ州でさえ、自由と正義(せいぎ)のオアシスに変身(へんしん)するという夢である。
私には夢がある。
それは、いつの日か、私の4人の幼(おさな)い子どもたちが、肌(はだ)の色によってではなく、人格(じんかく)そのものによって評価(ひょうか)される国に住むという夢である。
今日、私には夢がある。
私には夢がある。
それは、邪悪(じゃあく)な人種差別主義者(じんしゅさべつしゅぎしゃ)たちのいる、州権優位(しゅうけんゆうい)や連邦法実施拒否(れんぽうほうじっちきょひ)を主張(しゅちょう)する州知事(しゅうちじ)のいるアラバマ州でさえも、いつの日か、そのアラバマでさえ、黒人の少年少女が白人の少年少女と兄弟姉妹(きょうだいしまい)として手をつなげるようになるという夢である。
今日、私には夢がある。
私には夢がある。
それは、いつの日か、あらゆる谷(たに)が高められ、あらゆる丘(おか)と山は低(ひく)められ、でこぼこした所は平(たい)らにならされ、曲(ま)がった道がまっすぐにされ、そして神の栄光(えいこう)が啓示(けいじ)され、生きとし生けるものがその栄光を共(とも)に見ることになるという夢である。
これがわれわれの希望である。この信念(しんねん)を抱(だ)いて、私は南部(なんぶ)へ戻(もど)って行く」

人種差別の撤廃(てっぱい)と各人種(かくじんしゅ)の協和(きょうわ)という高い理想(りそう)を簡潔(かんけつ)な言葉で訴(うった)えたこの演説は多くの感動(かんどう)と共感(きょうかん)をよびました。
アメリカ国内の世論(せろん)ももりあがり、ジョンソン大統領政権下(だいとうりょうせいけんか)の1964年7月、公民権法が制定(せいてい)されました。
それは建国以来200年近く続いた法における人種差別の終わりの、始まりだったのです。
それは自らが人種差別を嫌(きら)うケネディ大統領と、キング牧師が協力(きょうりょく)し、作り上げたものでした。
終わりの始(はじ)まり、。
まだ新法(しんぽう)を確実(かくじつ)に執行(しっこう)されるようにすること、その他の不平等の廃止(はいし)、そして根(ね)づよい差別意識、対立の意識、憎しみ、さげすみ。
キング牧師の活動(かつどう)はまだスタート地点(ちてん)だったのかもしれません。
それでもスタート地点に立つことすら許(ゆる)されなかった黒人たちが、やっと、差別の終わりの入口(いりぐち)に立つことができたのです。

1963年11月22日。
一発の銃声(じゅうせい)。
ケネディ大統領が暗殺されました。
差別廃止運動(さべつはいしうんどう)を支(ささ)えてくれた大統領の突然(とつぜん)の死に、キング一家は驚(おどろ)き、深い悲しみを覚(おぼ)えました。
幸い、ケネディの後に就任(しゅうにん))したジョンソン大統領も、ケネディ以上にキングたちの運動に理解(りかい)を示してくれました。
しかしその頃黒人たちに対する暴力はエスカレートしていました。

KKK団による無抵抗の人に対する火あぶり事件。
運動をする白人学生、黒人学生三人はともに連れ去られ、ひどいリンチを受け殺さる事件がありました。

ここまできて、ようやく知事は白人、黒人双方(そうほう)の委員会設立(いいんかいせつりつ)に着手(ちゃくしゅ)。
7月2日、ジョンソン大統領は、「1964年公民権法案」に署名しました。
黒人の人権がようやく認(みちめ)められたのです。

勝利(しょうり)、しかしたくさんの犠牲(ぎせい)に打ちのめされていたキング牧師の元に、ベルリン市長から「ケネディ大統領追悼(ついとう)コンサート」に招待(しょうたい)されます。
しばしの癒し。
そしてローマ教皇(きょうこう)パウロ6世から会見(かいけん)を申し込まれ、バチカン会議(かいぎ)を記念(きねん)する銀メダルが送られました。

米国に帰った彼に驚きの知らせがあります。
ノーベル平和賞(へいわしょう)の受賞(じゅしょう)の知らせが来たのです。

1964年(37)
キング牧師に「アメリカ合衆国(がっしゅうこく)における人種偏見(じんしゅへんけん)を終わらせるための非暴力抵抗運動」を理由(りゆう)にノーベル平和賞が授与(じゅよ)。
アメリカ人としては12人目、黒人としては3人目でした。
キング牧師は「受賞金(じゅしょうきん)はすべてのアフリカ系アメリカ人のものだ」とインタビューにコメントしました。
しかしこの頃すべての黒人が彼の非暴力主義を支持(しじ)していたわけではなかったのです。
一部の過激派(かげきは)は、同じ黒人のマルコムXを支持していました。
彼は平和主義(へいわしゅぎ)のキング牧師と正反対(せいはんたい)で、暴力的手法(ぼうりょくてきしゅほう)を含(ふく)む人種差別の撤廃(てっぱい)をとなえる。
イライジャ・ムハンマドの教団(きょうだん)に入っていました。
教団は当時黒人の真(しん)の宗教はイスラム教だ、と唱(とな)え、白人を敵視(てきし)していました。

キングとマルコムX、両者(りょうしゃ)は同じ理想(りそう)をかかげながら、支持者同士がしばしば対立(たいりつ)していました。
しかし同じ時代に生きながら、本人同士が直接話しをしたのは一度きり。
1964年アメリカ議事堂(ぎじどう)で、ぐうぜん顔をあわせた1分ほどの時間のみでした。
しかしマルコムXはしだいに教団の過激(かげき)な思想(しそう)が嫌になり距離(きょり)を置いていきます。
教団の指導者イライジャの性犯罪(せいはんざい)を告発(こくはつ)したことなどから教団から命(いのち)を狙(ねら)われることになり、1965年2月に暗殺(あんさつ)されます。

マルコムXのお父さんはキング牧師の父親と同じく牧師でした。
キング牧師の家族は愛し合い、マルコムXの家族は対立し憎み合っていたと言います。
同じように差別を受けて育った二人の生きた道は大きく違(ちが)うものになってしまいました。
同じ理想を掲(かか)げながら。

マルコムXは生前(せいぜん)、自分の思想を別のものにしたいと、人をかいして「キング牧師と話をしたい」と会談したいと模索(もさく)していました。
その矢先(やさき)の暗殺。
キング牧師はマルコムXの死を激しく嘆(なげ)いたと言います。

黒人解放運動(こくじんかいほううんどう)は過激派(かげきは)、極端派(きょくたんは)への内部分裂(ないぶぶんれつ)をおこし、キング牧師の非暴力抵抗はしだいに時代遅(じだいおく)れと言われるようになってしまいました。

1965年1月
スラム街(がい)を視察(しさつ)した彼は、絶望(ぜつぼう)に打ちひしがれ希望(こぼう)をもつことをあきらめきっている黒人たちの姿を目にします。
このような人たちにこそ自分の導(みちび)きが必要(ひつよう)ではないかと、キング牧師はアトランタに家族を残し、1人スラム街に移(うつ)り住みます。
テレビのインタビューを受けた彼は、「ノーベ「ノーベル賞をとるような人が、どうしてわざわざこんな吹(ふ)き溜(だ)まりのような所に住むんですか?」と、インタビューで尋ねられて、「何千何万というきょうだいたちが惨(みじ)めな状態(じょうたい)に置かれているのに、自分だけ特権(とっけん)を持つつもりはありません」と答えます。
キング牧師が移り住んだことでスラム外の人々の胸に希望の灯(あか)りがともります。

1月早々。
「スラム街をなくそう」という標語(ひょうご)がウエスト・サイドの居住地にくまなく掲げられました。
そして、街中に美しく印刷(いんさつ)されたビラやチョークで書かれた標語(ひょうご)が張り出されました。
人々は、自分たちの住居(じゅうきょ)や町をきれいにすることに励(はげ)むようになり、少しずつではあるがスラムは改善(かいぜん)されていきました。

ボランティアの手で「スラム撲滅連合(ぼくめつれんごう)」が発足(はっそく)。
家主(やぬし)たちと修理(しゅうり)や改築(かいちく)の交渉(こうしょう)をするために精力的(せいりょくてき)に働(はたら)いてくれました。

一方、キングたちは「自由祭(じゆうさい)」というイベントを計画(けいかく)し、ハリー・ベラフォンテやマヘリア・ジャクソンなど高名(こうめい)な歌手を招(まね)いてコンサートを開き、資金(しきん)を集(あつ)めることに成功(せいこう)します。

3月7日
525から600名ほどの公民権運動家達(こうみんけんうんどうかたち)がセルマを出発(しゅっぱつ)しますが、人口の半数(はんすう)ほどの黒人達は、差別と脅迫(きょうはく)により有権者登録(ゆうけんしゃとうろく)を妨害(ぼうがい)されてしまいます。
デモ隊(たい)は、州都(しゅうと)モンゴメリーまで行進(こうしん)することで、警官隊達が合衆国憲法違反(がっしゅうこくけんぽういはん)をしたことをアピールしようとしました。
キング牧師がセルマからモンゴメリーへのデモを組織(そしき)したのは有権者登録をした黒人達を知事に保護(ほご)させようとしたためだったのですが、白人の知事はそのデモ行進が秩序(ちつじょ)を乱(みだ)す物だとレッテルをはり非難。
あらゆる手段(しゅだん)を使ってデモの阻止(そし)を宣言(せんげん)します。
デモ隊の前に州兵(しゅうへい)や保安官達が待ちかまえていました。
報道機関(ほうどうきかん)の目の前で、彼らは無抵抗(むていこう)のデモ隊に対して棍棒(こんぼう)や催涙(さんるい)ガス、鞭(むち)などを使ってセルマに追い返します。
ひどい傷を負って血だらけで倒れる人々の残酷(ざんこく)なシーンはテレビで報道(ほうどう)され、白人を含む多くの人々は凄惨(せいさん)な映像(えいぞう)に拒否感(きょひかん)を覚(おぼ)え、以後(いご)の合衆国の公民権運動を後押(あとお)しすることになった。

ある女性は、催涙(さんるい)ガスや殴打(おうだ)によって瀕死(せんし)の重傷(じゅうしょう)を負(お)ってしまいます。
その写真(しゃしん)は世界中の新聞やニュース雑誌(ざっし)の第1面や表紙(ひょうし)に掲載(けいさい)され見た人々に衝撃(しょうげき)をあたえました。
その事件(じけん)は血(ち)の日曜日(にちようび)と呼ばれるようになりました

これに怒ったキング牧師は再びデモ隊をひきいてモンゴメリーに向かいました。
3月21日に出発。
3月25日に無事(ぶじ)にモンゴメリーに到着(とうちゃく)しました。

テレビを通してキング牧師は訴(うった)えました。
「みんなの心が開けたら、白人と黒人は隣り合って住むこともできるのです。そしてその日、本当の自由が与えられるのです」
その後もキング牧師は黒人が安全に選挙登録(せんきょとうろく)をして投票(とうひょう)する権利(けんり)を保障(ほしょう)する投票権法(とうひょうけんほう)など多くの法改革(ほうかいかく)を推進(すいしん)しました。
しかし黒人運動は暴力的なものになっていきます。
1966年になると全米(ぜんべい)がベトナム戦争(せんそう)のために揺(ゆ)らいですさんでいきます。
戦争にエネルギーのすべてが行き、貧困(ひんこん)や差別問題に対する政策はどんどんほおっておかれることになりました。

9月には新しい公民権案が否決(ひけつ)され、黒人たちの間に不満(ふまん)がくすぶります。
もはや非暴力など無意味(むいみ)だという声がますます高まってしまいます。
「ブラックパワー」運動を熱唱(ねっしょう)するストークリー・カーマイケルのような強硬的(きょうこうてき)な指導者(しどうしゃ)が現(あらわ)れたり、革命(かくめい)による黒人解放を提唱(ていしょう)し、アフリカ系アメリカ人に対し武装蜂起(ぶそうほうき)を呼びかけた「ブラックパンサー党(とう)」が活動(かつどう)を開始(かいし)します。

1967年にはニュージャージー州で大規模な黒人による暴動があり、世論(せろん)を含め白人社会との対立の時代(じだい)に入っていきます。
白人による黒人に対する暴力も各地(かくち)で増えていきました。
キング牧師はその原因(げんいん)を演説の中でこのように分析(ぶんせき)しています。

1公民権法成立(こうみんけんせいりつ)は黒人から見ると解放運動(かいほううんどう)の最初のステップでしかなかったが、白人社会は「これで問題(もんだい)は片付(かたづ)いた」とゴールだと位置(いち)づけた。
2深(ふか)く根付(ねづ)いた差別意識は依然(いぜん)として教育や雇用(やくよう)の場に蔓延(まんえん)しており、黒人は階段(かいだん)の入り口には立てても頂点(ちょうてん)には上っていけない。
3差別意識により雇用(こよう)の機会(きかい)を奪(うば)われた黒人の失業問題(しつぎょうもんだい)は、白人に比(くら)べ深刻(しんこく)である。
4ベトナム戦争により黒人は多数徴兵(ちょうへい)され、その多くは最前線(さいぜんせん)で戦わされている。

彼らは母国(ぼこく)で民主主義(みんしゅしゅぎ)の恩恵(おんえ)を受けていないのに、民主主義を守るために戦争に狩(か)り出されている。
5大都市(だいとし)ではスラム街に黒人が押し込められ、戦争のためにそのインフラ整備等(せいびとう)の環境問題(かんきょうもんだい)はないがしろにされている。
そしてベトナム戦争に反対(はんたい)する意思を明確(めいかく)に示(しめ)しながら「ブラック・パワー」に対し「グリーン・パワー」(グリーンはアメリカの紙幣(しへい)の色)などでさらに待遇改善(たいぐうかいぜん)をうったえました。
また「ベトナム反戦運動(はんせんうんどう)」に積極的(せっきょくてき)に関与(かんよ)しました。
暴力をじさない過激思想(かげきしそう)の黒人社会、ベトナム戦争に賛成(さんせい)する主流(しゅりゅう)の白人社会、両方の勢力(せいりょく)がキング牧師を邪魔(じゃま)だと思い、敵(てき)が増(ふ)えていきます。
爆弾テロや刺殺(しさつ)未遂(みすい)もありましたが、からくも命(いのち)を取り留め、精力的(せいりょくてき)に活動を続けていました。

1968年4月4日
遊説活動中(ゆうぜいかつどうちゅう)のテネシー州メンフィスで、あたかも死を予言(よげん)したかのような演説をします。
「I’ve Been to the Mountaintop(私は山頂(さんちょう)に達(たっ)した)」
これから何が起(お)きようとしているのか私にはわかりません。
私たちの前途(ぜんと)に困難(こんなん)な日々が待(ま)っています。
でも、今となっては、私にはどうでもよいことなのです。
なぜなら、私は山の頂上(ちょうじょう)に達(たっ)したからです。だから私は気にしない。
皆さんと同じように、私も長生(ながい)きがしたいものです。長寿(ちょうじゅ)とはよいことです。
でも、今となれば私にはどうでもよいことなのです。
私はただ神(かみ)のご意志(いし)を実現(じつげん)したいのです。
神は、私が山に登(のぼ)るのを許(ゆる)されました。
そして私は山の向こうに約束(やくそく)の地を見たのです。
私は皆(みな)さんと一緒にそこにたどりつけないかもしれない。
しかし、今夜(こんや)、皆さんにわかってほしい。
私たちは、ひとつの民(たみ)として必ずや約束の地に到達(とうたつ)するということを。
だから、今夜(こんや)、私は幸(しあわせ)せです。
私は何も心配することはなく、誰をも恐(おそ)れてはいないのです。
私の眼(め)は、神の再臨(さいりん)の栄光(えいこう)をみたのです。

この時聞いていた人々は、不吉(ふきつ)な予感(よかん)に震(ふる)えたと言います。
次の日、白人男性でならず者(もの)のジェームズ・アール・レイに撃(う)たれます。
病院に運ばれますが間もなく死亡(しぼう)しました。

キング牧師の暗殺(あんさつ)で、アメリカ国内の怒りにあふれたアフリカ系アメリカ人による暴動(ぼうどう)が起きましたが、葬儀(そうぎ)が始まるとその怒りは悲しみに変わり黒人だけでなく多くの白人、著名人(ちょめいじん)、政府高官(せいふこうかん)、そして警察官が参列(さんれつ)し死を悲しみました。
世界中がこの偉大(いだい)な人の死を悲(かな)しみました。

墓標(ぼひょう)には「ついに自由をえた」と記載(きさい)されました。

キング牧師の死後
妻のコレッタは4人の子供を育てながら、夫の意思を継(つ)ぎ「非暴力社会変革(ひぼうりょくしゃかいかいかく)センター」を設立(せつりつ)。
映画やTV、ビデオ・ゲームなどの暴力シーンを無くす運動を精力的(せいりょくてき)に行ったり非暴力運動、人種差別撤廃、貧困層救済(ひんこんそうきゅうさい)の運動を指導(しどう)して世界をまわりました。
彼女は2005年8月16日に脳卒中(のうそっちゅう)で倒(たお)れて半身不随(はんしんふずい)になり、2006年1月31日に78歳で亡くなりました。

キング牧師の栄誉(えいよ)をたたえてレーガン大統領権下の1986年よりキング牧師の誕生日(たんじょうび)に近い(1月15日)。
毎年1月第三月曜日をキング牧師記念日(きねんび)として祝日(しゅくじつ)としています。
アメリカ国内で生前(せいぜん)の業績(ぎょうせき)で祝日が制定(せいてい)されたのは、コロンブスとジョージ・ワシントン(初代大統領)、リンカーンと(16代大統領)、そしてキング牧師だけです。
毎年この日にはキング牧師をたたえて式典(しきてん)が開かれています。
暗殺現場(あんさつげんば)は国立公民権博物館(こくりつこうみんけんはくぶつかん)になっています。
今でもアメリカ国内の多くの大都市に「マーチン・ルーサー・キング通り」が存在(そんざい)します。

アメリカ国内ではアメリカ系アフリカ人だけでなく、インディアン、ヒスパニック、アジア系アメリカ人、中東系(ちゅうとうけい)アメリカ人、特にイスラム教徒(きょうと)への差別が根絶(こんぜつ)されるどころか強まってる気がします。

私は、たとえ緩(ゆる)やかな変化(へんか)しかもたらさないとしても、やはりキング牧師の目指(めざ)した非暴力主義こそが真の平等、平和をもたらすのではないかと思っています。
暴力は暴力を生みます。
にくしみはさらなる憎しみを生みます。
非暴力で対処(たいしょ)しても相手は暴力をふるうかもしれません。
にくしんでいないのに憎(にく)まれるかもしれません。
しかしキング牧師は、非暴力の黒人たちのデモに警官が暴力をふるう姿を人びとに見せることで、今まで見て見ぬふりをしていた大衆の心を揺(ゆ)さぶりました。
非暴力主義は無抵抗主義ではありません。
いかに差別が残酷(ざんこく)なことか、大きな声で訴えることが大切です。

キング牧師の死から40年後に大統領にアメリカ人とケニア人のハーフであるバラク・オバマさんが選(えら)ばれました。
大統領夫人のミシェル・オバマ夫人は黒人奴隷の子孫(しそん)です。
アフリカ系アメリカ人初の大統領とファーストレディーの初めての就任(しゅうにん)でした。

大統領就任式(だいとうりょうしゅうにんしき)には、キング牧師の息子のマーティン・ルーサー・キング3世(祖父・父と同じ名前)も参加し、第44回就任式のテーマは、エイブラハム・リンカーン生誕(せいたん)200年を記念して、「自由の新しい誕生(たんじょう)」とされました。
初のアフリカ系アメリカ人の大統領就任はとても感動的(かんどうてき)で歴史的(れきしてき)な出来事(できごと)でした。
これで一気に差別が消えるかとも期待(きたい)されたのですが、今はまたオバマ前大統領と正反対(せいはんたい)のトランプさんが大統領に付き、アメリカが二つに分かれてしまいました。
キング牧師はどんな思いで天から見ているでしょう?

キング牧師の導いた差別の終わりへの道筋(みちすじ)。
その先をあたたかい光に満(み)ちた道にするか、憎しみと流血(りゅうけつ)の道にするか。
それはアメリカ人だけでなく、全ての国の人々の前にある道です。

差別意識、憎しみ、怒りで進むか。
慈悲(じひ)と愛、希望で進むか。

全ての人が歩む道筋です。
その先をあたたかい光に満ちた道にするか。
憎しみと流血の道にするか。

きめるのは自分自身(じぶんじしん)なのです。



キング牧師の本です。
「マーティン・ルーサー・キング自伝」 
「私には夢がある――M・L・キング説教(せっきょう)・講演集(こうえんしゅう)」
「汝(なんじ)の敵を愛せよ」
「自由への大いなる歩み―非暴力で闘(たたか)った黒人たち 」

また「キング牧師とマルコムX」という本も出ています。
他、キング牧師を主題(しゅだい)にした本は多数(たすう)出版(しゅっぱん)されています。

マイケル・ジャクソンは「もしマーティン・ルーサーが生きていたら、このような事態(じたい)を放(ほお)っておかなかった」と歌っていました。

キング牧師の名言
「疑(うたが)わずに最初(さいしょ)の一段(だん)を登(のぼ)りなさい。階段のすべて見えなくてもいい。とにかく最初の一歩を踏(ふ)み出すのです」
「闇(やみ)は、闇で追い払うことはできない。光だけがそれを可能(かのう)にする。憎しみは憎しみで追い払うことはできない。愛だけがそれを可能にする」
「黙(だま)って服従(ふくじゅう)することは、しばしば安易(あんい)な道ではあるが、決して道徳的(どうとくてき)な道ではないのだ。それは臆病者(おくびょうもの)の道なのだ」
「ほとんどいつも、創造的(そうぞうてき)でひたむきな少数派(しょうすうは)が世界をより良いものにしてきた」
「憎しみは人生を麻痺(まひ)させる。だが愛は人生を解放(かいほう)する」
「人は「発言(はつげん)する」ことにのみならず、「発言しない」ということにも責任(せきにん)を持たなければならない」
「私たちには今日も明日も困難(こんなん)が待ち受けている。それでも私には夢がある」


クイズ
キング牧師が非暴力の手本(てほん)にしたインドの精神的指導者(せいしんてきしどうしゃ)は?

1、マハトマ・ガンジー
2、ダライ・ラマ




答え1
ガンジーは「非暴力、不服従(ふふくじゅう)」運動によってイギリスからの独立運動(どくりつうんどう)を指揮(しき)しました。
インド独立の父と呼ばれています。

2のダライ・ラマはチベット仏教(ぶっきょう)の最高指導者(さいこうしどうしゃ)です。
最近では2026年11月に来日(らいにち)しています。
その時も、それ以前来日の時もコンビニで紅茶花伝(こうちゃかでん)を買われていて、とてもお好きなようです。


*文章(ぶんしょう)で黒人、白人と表現(ひょうげん)していますが、その呼び方は今では差別という意見もあります。
ですがこちらでは当時の呼び方で書かせていただいたことをご了承(りょうしょう)ください。
こちらは差別的でないとされる表現です。

白人はヨーロピアン、西洋人(せいようじん)、欧米人(おうべいじん)、ウエスタン。
黒人はアフリカ系、アフリカン。
黄色人種(おうしょくじんしゅ)は東洋人(とうようじん)、アジアン、イースタン(東の・・と言う意味(いみ)です)、アジア系
などです。

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