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なぞなぞ魔法学園
中宮定子
中宮定子
4kサイズ(3840×2160)  4kサイズぬり絵(3840×2160)

「清少納言の愛した中宮定子」うんちく

序章(じょしょう)

清少納言(せいしょうなごん)からこの世(よ)でただ一人の主君(しゅくん)と愛(あい)され、時(とき)の一条天皇(いちじょうてんのう)から激愛(げきあい)されたプリンセス定子(ていし)。
天皇の子を宿(やど)し実家(じっか)に里帰(さとがえ)り中(ちゅう)、彼女(かのじょ)と一族(いちぞく)に権力者(けんりょくしゃ)藤原道長(ふじわらのみちなが)の魔手(ましゅ)が迫(せま)ります。

彼女の目(め)の前(まえ)で、愛(あい)する弟(おとうと)たちが検非違使(けびいし)に捕(とら)えられ、定子は、自(みずか)らの手(て)で長(なが)い髪(かみ)を切(き)り落飾(らくしょく)してしまいます。
しかし帝(みかど)は彼女が尼(あま)になり自分から去(さ)ることを許(ゆる)しませんでした。
夫に慰(なぐさ)められ愛され守(まも)られて、無事(ぶじ)に出産(しゅっさん)。
宮廷(きゅうてい)に呼び戻された彼女はその後も愛され、さらに二人の皇子、皇女をさずかります。
それは当時(とうじ)の慣習(かんしゅう)からは、なにもかもはずれたことでした。
個人的に歴史上(れきしじょう)、もっとも帝から愛された中宮(ちゅうぐう)だと思っています。

今回(こんかい)は悲劇(ひげき)のプリンセスと言われながら、誰(だれ)よりも華(はな)やかに、誰よりも愛され、誰よりもロマンチックに生(い)きた定子の人生(じんせい)をたどりたいと思います。

第66代一条天皇の中宮となった定子(のちに皇妃宮(こうごうみや))は976年、藤原道隆(ふじわらのみちたか)と高階貴子(たかしなのきし、またはたかこ)の間(あいだ)に生(うま)れましたが、話しは分かりやすくするために祖父(そふ)は藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の時代までさかのぼります。
興味のない方は1章は飛ばしていただいても大丈夫です。

1章 超ゴーマンな出世欲の鬼、藤原兼家と、プレイボーイ道隆と貴子の恋。

兼家(かねいえ)は醍醐天皇(だいごてんのう)から大親友(だいしんゆう)のように信頼(しんらい)されていた藤原師輔(ふじわらのもろすけ)の三男です。
師輔(もろすけ)は天皇の娘の内親王(ないしんのう)を3人も妻(つま)に与(あた)えられています。
内親王を妻にいただくということはめったにない名誉(めいよ)なことなのです。
1人の内親王でさえ、よほど天皇から信頼(しんらい)されていないと妻に出来ません。
よほど信頼(しんらい)され気が合っていたのでしょう。
その師輔(もろすけ)の長男は穏(おだ)やかな性格(せいかく)の伊尹(これただ)、次男は兼通(かねみち)、三男が兼家(かねいえ)です。
兼家(かねいえ)は5歳上の兄の師輔(もろすけ)から愛され、次兄の兼通(かねみち)そっちのけで出世(しゅっせ)したために激(はげ)しく憎(にく)まれます。
ヤンチャな三男を愛した長男と、どちらともしっくりしないまん中っ子の図でしょうか。

順風満帆(じゅんぷうまんぱん)に出世(しゅっせ)する兼家。
やがて家庭(かてい)を持ち子供もたくさん生まれます。

953年出生の定子の父、道隆(みちたか)。
954年のちの冷泉帝女御(れいぜいていにょうご)、三条天皇(さんじょてんのう)の母、超子(ちょうし)誕生(たんじょう)。
961年三男道兼(みちがね)。
962年のちの円融天皇女御(えんゆうてんのうにょうご)、一条天皇の母、詮子(せんし)誕生。
966年父のゴーマンを一番受けついだ道長(みちなが)誕生。

972年伊尹(これただ)が若(わか)くして死んでしまうと、次兄(じけい)兼通(かねみち)が若い円融天皇(えんゆうてんのう)に取り入り、今までの復讐(ふくしゅう)にと、兼家の悪口(わるぐち)を吹(ふ)き込んだため天皇から嫌(きら)われて遠(とお)ざけられてしまい出世の道(みち)が閉(と)ざされます。

兼家は「蜻蛉日記(かげろうにっき)」の作者(さくしゃ)、藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)の夫(おっと)としても知(し)られています。
そこでは兼家のことは、雅(みやび)を知らないおもしろくない、情愛(じょうあい)の無(な)い冷(つめ)たい男(おとこ)、権力(けんりょく)欲むんむんで成金(なりきん)っぽくて野暮(やぼ)な人としてボロクソに書(か)かれています。
とはいえ道綱母もどちらかというと悪妻(あくさい)の部類(ぶるい)に入る女性(じょせい)でした。

兼家と喧嘩(けんか)して「尼(あま)になる!」と家出(いえで)したリ、久(ひさ)しぶりに訪(たず)ねて来た兼家をしめだしたり、ネチネチ嫌味(いやみ)を言ったり、正妻(せいさい)に歌を突然(とつぜん)送り、その返歌(へんか)がつまらない内容(ないよう)と陰口(かげぐち)を言ったり・・・。
(晩年には丸くなって蜻蛉日記も味わい深い内容(ないよう)になっています)

数(かぞ)えで24のころの兼家の長男道隆は、まだ正五位下に叙(じょ)されたばかり。
まだまだピカピカの新人(しんじん)でした。
期待(きた)の新人(しんじん)、ハンサムで、女性にモテモテのプレイボーイ道隆は当時評判(ひょうばん)の才女(さいじょ)で円融天皇に従(したが)えていたキャリアウーマン高内侍(こうのないし)に興味(きょうみ)しんしんでした。
高内侍とは、のちの定子のお母さん高階貴子(たかしなのたかこ、またはきし)です。
彼女は学者(がくしゃ)として高名(こうめい)な高階成忠(たかしなのなりただ)の娘でした。
また血筋(ちすじ)は在原業平(ありわらのなりひら)と伊勢斎宮恬子内親王(いせのさいぐうやすこないしんのう)の子孫(しそん)であるとされています。

当時女性(じょせい)としては珍(めずら)しく、和歌(わか)を勉強(べんきょう)し、漢学(かんがく)、漢詩(かんし)をよくし、才媛(さいえん)として名を響(ひび)かせていました。
その話題(わだい)の才媛(さいえん)貴子が美形(びけい)のプレイボーイ藤原道隆(ふじわらのみちたか)から求愛(きゅうあい)された話は瞬(またた)く間に噂(うわさ)になります。
道隆にとっては最初(さいしょ)は遊(あそ)びの一つだったのかもしれません。
僕と恋人同士(こいびとどうし)になって!という道隆に貴子は百人一首(ひゃくにんいっしゅ)にも選(えら)ばれた。
「わすれじの行く末(すえ)まではかたければ今日(きょう)をかぎりの命(いのち)ともがな」と情熱的(じょうねつ)な歌(うた)を返(かえ)しました。
頭(あたま)がよくプライドも高(たか)い女と思っていた貴子からの思いがけない情熱的な歌の返(かえ)し道隆はドキリとしたでしょう。

道隆の貴子への愛は、やがて遊(あそ)びではなく本物(ほんもの)になっていきます。
貴子は正妻(せいさい)に迎(むか)えられ三男四女をもうけます。
召使(めしつかい)と美青年(びせいねん)でお金(かね)も権力(けんりょく)もある坊(ぼっ)っちゃんとの恋(こい)。
まさに貴子は宮廷(きゅうてい)のシンデレラガールでした。
(ただし妻(つま)は他(ほか)にも何人かいましたが貴子が一番寵愛(ちょうあい)され、身分(みぶん)が低(ひく)かったにもかかわらず正妻扱(せいさいあつか)いになっています)

貴子との間に974年
長子(ちょうし)で三男(次男とも)の伊周(これちか)は漢学に秀(ひい)で大変(たいへん)頭がよく、そして端麗(たんれい)な美形だったようです。
ただ逆境(ぎゃっきょう)には弱(よわ)い人だったようです。
ぼっちゃまなので・・。

977年。
このうんちくの主人公(しゅじんこう)。
定子出生(しゅっせい)。

979年。
隆家(たかいえ)出生。
天下(てんか)の荒(あら)くれものと言われた豪胆(ごうたん)な人物(じんぶつ)で最後(さいご)まで道長に反抗(はんこう)し続(つづ)けました。
腹黒(はらぐろ)道長もこの甥(おい)には一目置(いちもくお)いていました。
兄弟(きょうだい)の中で一番長生(ながい)きして誰(だれ)もが道長に逆(さか)らえず、びくびくへこつらびっている時勢(じせい)の中、ただ一人逆らい続けました。

980年。
枕草子(まくらのそうし)にも登場(とうじょう)する、一条天皇(いちじょうてんのう)在位当時(ざいいとうじ)、東宮(とうぐう)だった三条帝(さんじょうてい)の女御(にょうご)原子(もとこ、げんしとも)。
華(はな)やかな人だったようです。

980年。
のちに延暦寺(えんりゃくじ)権大僧都(ごんのだいそうず)になる隆円(りゅうえん)。
原子と同じ年生まれということは双子(ふたご)というのもありえるのでしょうか?

昔(むかし)は双子は良くないといい、1人を殺(ころ)してしまう、または僧(そう)にしたり、養子(ようし)に出すということもあったようなので彼が僧になったことを考(かんが)えると双子説(ふたごせつ)もありかもしれません。

三女、生没(せいぼつ)はわかりませんが冷泉帝皇子(れいぜいていこうし)敦道親王室(あつみちしんのうしつ)の頼子(よりこ)。
*敦道親王は亡くなった兄の恋人(こいびと)だった和泉式部(いずみしきぶ)と大恋愛(だいれんあい)をして大(だい)スキャンダルをおこす人です。

985年。
四女、定子の亡(な)きあと一条天皇に面影(おもかげ)を恋(こ)われて妻になった御匣殿(みくしげどの)。
生まれた当時の定子は、普通の「貴族(きぞく)の姫君(ひめぎみ)」の一人でした。

定子が誕生(たんじょう)した翌年(よくねん)、兼家一門(かねいえいちもん)の出世(しゅっせ)をはばんでいた兼通は薨去(こうきょ)しますが、死を目前(もくぜん)に控(ひか)えてなお、関白(かんぱく)の座(ざ)を、弟の兼家に渡したくない一心(いっしん)で、あえて家門(かもん)のライバルの藤原頼忠(ふじわらのよりただ)に譲(ゆず)ります。
そこまでして弟一家(おとうといっか)を日陰(ひかげ)に貶(おとし)めようとしたのです。
でもこれには兼通に同情(どうじょう)すべき点(てん)もありました。

いよいよ明日(あした)も知れないと兼通が屋敷(やしき)で寝こんでいると、兼家の牛車(ぎっしゃ)が屋敷の前に華々(はなばな)しく現(あらわ)れます。
見舞(みま)いに来てくれたのか、日ごろ仲(なか)が悪(わる)くてもやはり血(ち)を分けた弟よ・・。
と、兼通が嬉(うれ)し泣(な)きで喜(よろこ)んで迎(むか)えようとすると、牛車は通りがかっただけ。
重病(じゅうびょう)の兄など気にもせずサッサと通り過ぎてしまいました。
喜びの涙(なみだ)は悔(くや)し涙に変わり、弟の冷(つめ)たさに激怒(げきど)したと言います。
執念(しゅうねん)で起き上がり、病身(びょうしん)をおして参内(さんだい)して、最後(さいご)の除目(じもく)を行(おこな)い、関白を藤原頼忠に譲(ゆず)り、冷たい弟、兼家の右近衛大将(うこんえのだいしょう)、按察使(あぜち)の職(しょく)を奪(うば)い、治部卿(じぶきょう)に格下(かくさ)げしました。
最期(さいご)の力を使(つか)い果(は)たして兼通は死にました。

余計(よけい)な怒(いか)りを買った兼家は未練(みれん)がましく、長歌(ちょうか)を献上(けんじょう)して失意(しつい)のほどを円融天皇(えんゆうてんのう)に訴(うった)えたのですが、元々(もともと)歌もうまくなかったらしいので、どこまで伝わったのかわかりません。
天皇からはしばらく待つように、との返歌(へんか)を受けたといいます。
思うに兼家は日ごろから兄に対してそういう態度(たいど)だったのでしょう。
ねんごろに見舞いをするような情(なさけ)のある弟であれば、そんなに憎(にく)まれなかったのではないでしょうか?
そんなことで、この頃は兼家の孫娘(まごむすめ)である定子の将来(しょうらい)も、不透明(ふとうめい)でした。

その後、兼通から地位(ちい)を譲(ゆず)られた藤原 頼忠(ふじわら の よりただ)により復権(ふっけん)してもらい右大臣(うだいじん)に上がります。
円融天皇の口添(くちぞ)えもあったのでしょう。
お金をまき散らしでもしたのでしょうか。

こうしてようやく念願(ねんがん)だった娘(むすめ)の詮子(せんし)を円融天皇(えんゆうてんのう)に嫁(とつ)がせる入内が叶(かな)います。


2章 冷たい夫婦関係と口出し舅。

しかし円融天皇(えんゆうてんのう)には、すでに12歳年上の妻(つま)、兼通長女(かねみちちょうじょ)藤原こう子が中宮(ちゅうぐう)として地位(ちい)を築(きず)いていましたし、藤原 頼忠(ふじわら の よりただ)も娘遵子(そんし)を女御にあげていました。
また、気狂(きぐる)いの宮(みや)と呼(よ)ばれた兄、冷泉天皇(れいぜいてんのう)の内親王(ないしんのう)尊子(そんしないしんのう)をとくに寵愛(ちょうあい)していました。
そんなところに入内した詮子(せんし)ですが、天皇がゴーマンな兼家を嫌(きら)っていていたこともあり心から愛されるということはなかったようです。
性質(せいしつ)は傲慢(ごうまん)で野心的(やしんてき)な父親(ちちおや)に似(に)ていたようですが、面影(おもかげ)も似ていたのかもしれません。
それでも詮子(せんし)は円融天皇の唯一(ゆいいつ)の皇子(こうし)、のちの一条天皇を生みます。
そんな時、前の中宮こう子が亡くなります。
当然次の中宮には皇子(こうし)の母の自分が選(えら)ばれると思ったことでしょう。
しかし中宮の座(ざ)は詮子(せんし)より前(まえ)から妻の一人だった、兼家の政敵(せいてき)藤原 頼忠(ふじわら の よりただ)の娘遵子(そんし)にいきます。
天皇と兼家、そして詮子との関係は一気(いっき)に悪化(あっか)します。

兼家と詮子は激怒(げきど)。
詮子(せんし)は兼家と共にこれもみよがしに内裏(だいり)から、東三条邸(ひがしさんじょうてい)に引(ひ)っ込んでしまいます。
心配した天皇が使者(ししゃ)をやっても、ろくに返答(へんとう)もしないゴーマンぶりです。

円融天皇の時代(じだい)、内裏(だいり)は2度の大火(たいか)にあい、消失(しょうしつ)しています。
そんな時でも、兼家からどんなに誘(さそ)われても、円融天皇は仮住(かりず)まいで妻詮子の実家(じっか)に世話(せわ)になることはありませんでした。
よほど嫌(いや)だったのでしょう。
お互(たが)い様(さま)の嫌(きら)いあいぶりです。

大火(たいか)に、醜(みにく)い政権争(せいけんあらそ)い、ままならない世(よ)の中に疲(つか)れた天皇は、幼(おさな)い息子(むすこ)一条ではなく兄の冷泉帝(れいぜいてい)の皇子で甥(おい)の花山天皇(かざんてんのう)に後を譲(ゆず)ります。
この時花山天皇(かざんてんのう)は17歳でした。
東宮(とうぐう)は一条がえらばれました。
兼家はそうして摂政(せっしょう)、関白(かんぱく)として強大(きょうだい)な権力(けんりょく)を手にします。
しかし孫(まご)が東宮とはいえ、花山天皇に皇子が生まれれば立場(たちば)が危(あやう)うくなると、気が気ではなかったでしょう。


3章 ハレンチで純粋(じゅんすい)な花山天皇。

花山天皇は父と似(に)ていて変(か)わった振(ふ)る舞(ま)いの多(おお)い人でした。
即位式(そくいしき)の式典(しきてん)で馬(うま)の内侍(ないし)という女性(じょせい)を対極殿(たいきょくでん)の高座(たかくら)に引き込んで犯(おか)していたといいます。
(同意(どうい)のものか文字通(もじどお)り無理(むり)やりなのかはよくわかりません)。
「いいではないか、いいではないか、でへへ」「キャー!」かもしれません。
高座(たかくら)は本来(ほんらい)神聖(しんせい)な場所(ばしょ)なので、やることが無茶苦茶(むちゃくちゃ)です。
こんな風(ふう)な女好(おんなず)きなので、即位後(そくいご)も手当(てあ)たり次第(しだい)に手を出していたそうです。
半年(はんとし)ほどの間(あいだ)に次々(つぎつぎ)に4人の女性(じょせい)を入内させています。
兼家(かねいえ)にすれば、そうした女御(にょうご)が皇子(こうし)を生まないか戦々恐々(せんせんきょうきょう)の日々(ひび)だったのではないでしょうか。
すでに孫の一条が東宮になっていますが、有力(ゆうりょく)な貴族(きぞく)の娘に皇子が生まれれば、めんどくさいことになります。
妻(つま)たちの中でひときわ花山(かざん)が愛(あい)した妻がいました。
弘徽殿(こきでん)の女御です。
その寵愛(ちょうあい)は激(はげ)しすぎたようで、周囲(しゅうい)から困(こま)ったものだと悪口(わるぐち)がもれるほどでした。
その弘徽殿(こきでん)の女御が懐妊(かいにん)します。
当時妊娠(にんしん)が分かれば内裏(だいり)を下(くだ)り実家(じっか)で静養(せいよう)するのが習(なら)わしでしたが
寵愛(ちょうあい)のあまりそばを離(はな)せず5か月になってやっと里帰(さとがえ)りできました。
しかし弘徽殿はつわりでひどくやせ細(ほそ)り、心配(しんぱい)した花山は、宮中(きゅうちゅう)にむりやり彼女(かのじょ)をもどしてしまい昼(ひる)も夜(よる)も傍(そば)に付き添(そ)っていたといいます。
しかし周(まわ)りはそういった純真(じゅんしん)な深(ふか)すぎる愛情(あいじょう)をゆるさず、7日後女御を実家(じっか)に戻(もど)します。
しかし8カ月の時に弘徽殿の女御(にょうご)は亡くなってしまいます。

花山天皇の嘆(なげ)きは大変(たいへん)なのもで、あれほどの女好(おんなず)きが、他(ほか)の妻たちをいっさいそばに寄(よ)せずしきりに念仏(ねんぶつ)を唱(とな)えるような状態(じょうたい)だったといいます。
自分の孫(まご)一条を天皇にしたい兼家は純粋(じゅんすい)で幼(おさな)い所(ところ)のある花山天皇をだまして頭(あたま)の毛を剃(そ)って僧にしてしまい退位(たいい)させてしまいます。
(とんでもない腹黒(はらぐろ)さです)
そしていよいよ娘の産んだ一条天皇(いちじょうてんのう)を即位(そくい)させます。
東宮には冷泉帝の二宮(にのみや)三条が立ちますが、彼も後(のち)に道長に冷酷(れいこく)に扱(あつか)われて、失意(しつい)のうちに譲位(じょうい)する運命(うんめい)です。


4章 プリンセス定子の入内。

989年。
12歳の定子は祖父(そふ)兼家の腰結(こしゆ)いで裳(も)を付けます(今でいう成人式(せいじんしき)のようなもの)。
翌(990年)の一条天皇の元服(げんぷく)でも加冠役(かかんやく)を務(つと)めます。
同じ年。
定子は13歳(数えで14歳)の春(はる)、三歳年下(としした)の一条天皇に添(そ)い臥(ふ)しとして入内したのです。
(添い臥しとは、元服(げんぷく)の夜、公卿(くぎょう)などの娘が選ばれて添い寝する役目(やくめ)のことで、多(おお)くはそのまま女御となりました)
一条天皇のお母(かあ)さんと定子のお父さんは兄妹(きょうだい)なのでいとこ同士(どうし)の結婚(けっこん)です。
三歳年下というとまだ10歳(数えで11歳)。
今の小学4年生ぐらいと中学1年生ぐらいの結婚。
最初(さいしょ)は姉(あね)と弟(おとうと)のような感(かん)じだったのでしょうか?

兼家は関白(かんぱく)に任(にん)じられたのですが、わずか3日で病気(びょうき)を理由(りゆう)に嫡男(ちゃくなん)・道隆(みちたか)に関白太政大臣(かんぱくだいじょうだいじん)を譲(ゆず)って世襲(せしゅう)を固(かた)め出家(しゅっけ)しました。
別邸(べってい)の二条京極殿(にじょうきょうごくでん)を「法興院(ほうこういん)」という寺院(じいん)に改(あらた)めて居住(いじゅう)したのですが、その2ヶ月後の7月に病没(びょうぼつ)しました。

後に兼家の家系(かけい)は大いに栄(さか)えて、五男の道長の時に全盛(ぜんせい)を迎(むか)えます。
藤原家(ふじわらけ)は摂関藤原家(せっかんふじわらけ)として、歴史(れきし)の中で権力(けんりょく)を独占(どくせん)していきます。

同年10月5日、定子は中宮(ちゅうぐう)になります。
これは父親の政治力(せいじりょく)のたまものでしょう。
わりと強引(ごういん)に中宮にしたようで反感(はんかん)を持つ人もいたとか。
また、26日には、母の貴子に正三位(しょうさんみ)の位(くらい)が授(さず)けられました。
(中宮の生母(せいぼ)が無位(むい)というわけにはいきませんから、箔付(はくづ)けのためです)
若(わか)くして権力(けんりょく)を持った道隆はとても美(うつく)しい華(はな)やかで派手好(はでず)きな人で、姉(あね)の詮子(せんし)はこの一つ上の兄、道隆を好(す)きでありませんでした。
華やかな分軽(かる)かったからかもしれません。
勝(か)ち気な詮子は、自分(じぶん)にすり寄(よ)る年の離(はな)れた弟(おとうと)道長(みちなが)を愛していました。
道長も父譲(ちちゆず)りの狡猾(こうかつ)さで姉に取(と)り入ります。
誰(だれ)に取り入っておけばいいかよく知っていたのでしょう。
その詮子と道長の濃密(のうみつ)な関係がのちの定子の悲劇(ひげき)につながっていきます。


5章 定子と一条、そして清少納言との幸(しあわ)せな日々。

定子は父譲(ちちゆず)りの誰(だれ)にでも好かれる陽気(ようき)でお茶目(おちゃめ)な所と、母譲りで頭(あたま)の良さをあわせもつ女性で、両方(りょうほう)の親から継(つ)いだ美(うつく)しさも秀(ひい)でていました。
まだ少年(しょうねん)の一条はそんな明(あか)るい定子の局(つぼね)にいることが多(おお)くなっていきます。
定子の兄・伊周(これちか)も、986年、一条帝即位(そくい)と同時(どうじ)に清涼殿(せいりょうでん)、(帝(みかど)の昼間(ひるま)の住(す)まい)への出入(でい)りを許(ゆる)されており、翌年(よくねん)にはわずか14歳で天皇側近(てんのうそっきん)の職(しょく)、蔵人(くろうど)になりました。
しばしば一条帝と定子とともに3人で時を過(す)ごすことも多かったようです。
伊周(これちか)も定子も、幼(おさな)い頃(ころ)から母によって漢文(かんぶん)を教(おし)え込まれていて、親(した)しんでいました。
一条も特に漢文を好きだったので気が合って楽しく過ごせたのでしょう。
当時、上流階級(じょうりゅうかいきゅう)の男性(だんせい)にとって漢文はまず第一(だいいち)の必須科目(ひっすいかもく)でした。
一条は公式(こうしき)に教えられるものとは別に、日常的(にちじょうてきに)に伊周からも教わっていたようです。

漢文というのは、当時、朝廷(ちょうてい)で用(もち)いられていた公式の文書(ぶんしょ)に使(つか)われていて、女官(にょかん)か男性の言語(げんご)でした。
定子はお母さんが女官だったので当時のお姫様(ひめさま)としては珍(めずら)しいことに漢文によく通じていたのです。
ですから傍(そば)にいても、兄と一条との漢文でのやり取り、面白味(おもしろみ)を彼女(かのじょ)はよくわかっていました。
時には一条に手ずから師事(しじ)することもあったようです。
二人は同(おな)じ趣味趣向(しゅみしゅこう)で、共感(きょうかん)しあい理解(りかい)しあえました。
そんな時間が一条には楽(たの)しくって仕方(しかた)がなかったのでしょう。
定子にも。
伊周にも。

そんな楽しい日々を送る定子の元(もと)にいよいよ清少納言(せいしょうなごん)がやってきます。
宮廷(きゅうてい)に上がった定子に父親の道隆はたくさんの優秀(ゆうしゅう)な世話係(せわがかり)の女官(にょかん)を付けます。
その中の一人が清少納言でした。
993年清少納言(せいしょうなごん)が彼女の元(もと)に女房(にょうぼう)としてやってきました。
天真爛漫(てんしんらんまん)で知的(ちてき)な清少納言と定子は性格(せいかく)がぴったり合(あ)い、主従(しゅじゅう)というよりは親友同士(しんゆうどうし)のようでした。
清少納言は後(あと)に宮廷(きゅうてい)での定子との輝(かがや)く日々(ひび)を枕草子(まくらのそうし)にまとめますが、それは定子への愛(あい)にあふれるラブレターともいえるものでした。
枕草子には一条天皇と定子との愛情豊(あいじょうゆた)かな心(こころ)の交流(こうりゅう)がたくさん書かれています。
そして清少納言もまた、父から漢文の手ほどきを受けていたため、得意(とくい)としていました。
定子は、そんな彼女の魅力(みりょく)と才能(さいのう)が最大限(さいだいげん)発揮(はっき)できるような演出(えんしゅつ)をします。
枕草子(まくらのそうし)の中でも有名(ゆうめい)なエピソード「香炉峰(こうろほう)の雪(ゆき)」。
「香炉峰の雪はどうなっているでしょう」
定子の謎(なぞ)かけに、清少納言が御簾(みす)を高(たか)く上げて雪の庭(にわ)を見せます。
白氏文集(はくしもんじゅう)の詩(し)を踏(ふ)まえた余興(よきょう)です。
「遺愛寺(いあいじ)の鐘(かね)は枕(まくら)をそばだてて聴(き)き、香炉峰こうろほう)の雪(ゆき)は簾(みす)をかかげてこれを看(み)る 」
(訳) 遺愛寺(いあいじ)の鐘(かね)の音(ね)は寝(ね)そべったままマクラをななめに たてて聴(き)き入り、香炉峰(こうろほう)に積(つ)もっている雪は簾(みす)を巻(ま)き上げて眺(なが)めている。
平安時代(へいあんじだい)の貴族(きぞく)は広(ひろ)く漢詩(かんし)を愛読(あいどく)していたのでした。
定子は清少納言がこの詩を知っているとわかっていたのでしょう。
この話はたちまち殿上人(でんじょうびと)たちに広(ひろ)がり、よくとっさに理解(りかい)し行動(こうどう)できたものよと感心(かんしん)されます。
定子は女房達(にょうぼうたち)の個性(こせい)や特技(とくぎ)を生かし、伸(の)ばす君主(くんしゅ)としての才能(さいのう)を持っていました。
そんな定子に女房達は魅了(みりょう)され、期待(きたい)される喜(よろこ)びに才能(さいのう)をぐんぐんと伸ばしました。
色(いろ)とりどりの花(はな)のように咲(さき)きほこる彼女たちに、多(おお)くの若(わか)く才能(さいのう)のある殿上人(でんじょうびと)たちが蝶(ちょう)のように集(あつ)まり、定子のサロンはますます明(あか)るく華(はな)やかに輝(かがや)きました。

宮中(きゅうちゅう)での行事(ぎょうじ)、五節(ごせち)の舞(まい)で、定子は女房たちに青摺(アオズリ)、今(いま)でいう青緑色(あおみどりいろ)の涼(すず)しげなそろいの衣裳(いしょう)を着(き)せて、ずらりと御簾際(みすぎわ)に揃(そろ)えました。
下仕(しもづか)えの者(もの)から童女(めのわらわ)まで、全員(ぜんいん)です。
さぞ涼(すず)やかで華(はな)やかに人(ひと)びとの目にうつったことでしょう。
殿上人(でんじょうびと)の貴公子(きこうし)たち、風流男(ふうりゅうおとこ)たちが、鮮(あざ)やかな花(はな)に惹(ひ)かれ続々(ぞくぞく)と集(あつ)まり、ますます定子の局(つぼね)は華やかに見えたでしょう。

清少納言が、定子の元に仕)したが)え始(はじ)めたばかりの頃(ころ)。
彼女は才知(さいち)にたけているとはいえ、元(もと)は普通(ふつう)の貴族(きぞく)の奥(おく)さんで、閉鎖(へいさ)された屋敷(やしき)の奥に暮(く)らしていたので、華やかな宮廷(きゅうてい)で人々にじろじろ見られることになれていませんでした。
はずかしさに小さくなっていた清少納言に定子は絵(え)を見せてくれたり、優(やさ)しく気を配(くば)ってくれます。
しかし、とても内気(うちき)で夜(よる)にしか参上(さんじょう)できない少納言に定子は親しみを込めて「葛城(かつらぎ)の神(かみ)(夜の神)」というあだ名を付けました。

2人が親(した)しくなってからのこと。
「私(わたし)のこと、好き?」
定子に尋(たず)ねられた清少納言はすぐに「はい」と答(こた)えようとしたのですが、誰(だれ)かが台所(だいどころ)のほうでくしゃみをしました。
くしゃみには願(ねが)いがかなわないというジンクスがあったので、定子は「ウソを言ったのね」と、奥に引っ込んでしまいます。
もちろんおちゃめな定子の冗談(じょうだん)なのですが、ひたすら一途(いちず)に定子を愛する清少納言は大変(たいへん)なショックを受(う)け、しょんぼりと自室(じしつ)に下がってしまいます。
そこに定子からおバカさんねというような手紙(てがみ)がきた・・。
二人の微笑(ほほえ)ましい友情(ゆうじょう)が伝(つた)わってきます。

定子は清少納言のことを初(はじ)めから気に入っていたようです。
何かと引き立てたり冗談(じょうだん)を仕掛(しか)けたりしています。
また清少納言は日ごろ、「愛(あい)されるなら1番でなくては嫌(いや)。2番目や3番目なら、死んだ方がマシ」と言っていました。
そんなところから男からは生意気(なまいき)な女ととらえられたりするのですが、ある時、定子への思慕(しぼ)ゆえに「中宮様(ちゅうぐうさま)に可愛(かわい)がっていただけるなら、何番目(なんばんめ)でも良いです」とささやきます。
なかなかにかわいいです。
そんな彼女に定子は「言い切ってしまった事は、そのように初志(しょし)を貫(つらぬ)くべきです」と叱咤(しった)しました。
「私に一番に愛されるようになりなさい」という熱(あつ)いそそのかしのように感(かん)じます。

また夫(おっと)の一条天皇は温和(おんわ)で詩(し)を好(この)み、音楽(おんがく)が堪能(たんのう)で、笛(ふえ)がとくに得意(とくい)で、勉学(べんがく)にも通じていたといいます。
兼家や道長の傀儡(かいらい)になることはなく、絶妙(ぜつみょう)なパワーバランスを保(たも)ち、理性的(りせいてき)に政治(せいじ)をおこなったと言います。

そんな一条天皇ですが、じつは猫(ねこ)が異常(いじょう)なほど好(す)きでした。
お気に入りの猫に5位の位(くらい)をあたえて「命婦(みょうぶ)のおもと」と名前(なまえ)を付け、専用(せんよう)の世話係(せわがかり)までつけました。
人間(にんげん)でも5位以上で貴族(きぞく)と呼ばれ殿上(でんじょう)に上がることを許(ゆる)された当時(とうじ)のことです。
破格(はかく)の出世(しゅっせ)・・。
とはいえ猫なので5位以下でも特(とく)に問題(もんだい)なく一条天皇のそばにはべることができるはず。
それほど好きだー!という気持(きも)ちのあらわれでしょう。

ある日この命婦のおもとが縁側(えんがわ)の端(はし)っこで日向(ひなた)ぼっこをしていました。
貴族(きぞく)の姫君(ひめぎみ)はそんな人から見える階(きざはし)にいてはみっともない(・・猫だからいいのですが・・)と世話役(せわやく)の馬(うま)の命婦(みょうぶ)が中にお入りと呼びますが
もちろん気ままな猫のこと。
知(し)らんぷりでたぬき寝入(ねい)り・・・。
あろうことか馬の命婦は、庭(にわ)にさ迷(まよ)いこみそのまま飼(か)われていた犬(いぬ)の翁丸(おきなまる)に「命婦のおとどをくっておしまい!」とけしかけます。
馬の命婦は猫がそんなに好きでなかったのでしょうか?
冗談(じょうだん)だったのでしょうが猫好(ねこず)きにはかなりの暴言(ぼうげん)にかんじます。

イスラム教(きょう)の開祖(かいそ)ムハンマドは、袖(そで)で猫が、あまりに気持(きも)ちよさそうに寝ているので、起(お)こすのがかわいそうと自分(じぶん)の袖(そで)を切って猫を寝かしたまま出かけたそうです。
猫好きとはそんなものです。
猫好きは猫を無理(むり)やり起こしたりしません。

(中国(ちゅうごく)では、哀皇帝(あいこうてい)が起きると、愛人(あいじん)の美少年(びしょうねん)が袖で寝ていて、起こすのがかわいそうと袖を切って出かけたと同(おな)じような伝説(でんせつ)があります。袖を切ったのが猫のためなら感動(かんどう)しますが相手(あいて)が美少年ではむずがゆいです)

ともかく命令(めいれい)されたことに一途(いちず)な翁丸(おきなまる)。
命婦のおもとに襲(おそ)いかかり、猫は怖(こわ)がって簾(すだれ)をもぐって部屋(へや)の中に逃(に)げ込みました。
たまたまそれを目撃(もくげき)した一条はショックを受け、大事(だいじ)な猫を懐(ふところ)に抱(だ)きしめ「犬を打(う)ちのめして島流(しまなが)しにしてしまえ!」と側近(そっきん)に命令(めいれい)します。
過酷(かこく)な罰(ばつ)です。
普段(ふだん)は冷静(れいせい)で善政(ぜんせい)をひいた一条天皇。
大事な猫のためには理性(りせい)が木(こ)っ端(ぱ)みじんのようです。
猫好きとはそんなものです。

かわいそうな翁丸はボコボコになぐられ島流(しまなが)し、翁丸をそそのかした馬の命婦も解任(かいにん)されてしまいます。
翁丸を可愛(かわい)がっていた清少納言(せいしょうなごん)は犬に同情(どうじょう)して悲(かな)しみますが、しばらく後(あと)ヒョイと翁丸らしき大怪我(おおけが)をした犬が戻(もど)ってきます。
そのあとの話しは枕草子(まくらのそうし)に詳(くわ)しいですが、定子のとりなしもあり、罪(つみ)は許(ゆる)され、もとの庭犬(にわいぬ)に戻ったとか。

他(ほか)にも、一条天皇の飼(か)い猫が子どもを産(う)むと、皇子(こうし)、皇女(こうじょ)誕生並(たんじょうな)みに、
産養(うぶたしない)という誕生(たんじょう)を祝(いわ)う祝宴(しゅくえん)が女院詮子(にょいんせんし)や右大臣(うだいじん)左大臣(さだいじん)も招(まね)かれ盛大(せいだい)にとりおこなわれたとか。
それは貢物(みつぎもの)や料理(りょうり)などすべて正式(せいしき)に用意(ようい)され、華(はなや)やかな宴(うたげ)は5日間にも及(およ)んだとか、それぞれの子猫(こねこ)の乳母(うば)には位(くらい)の高(たか)い女官(にょかん)が選(えら)ばれたとか。
猫への溺愛(できあい)ぶりが伝(つた)わっています。
そんな天皇の異常(いじょう)なほどの猫好きは、周(まわ)りの貴族(きぞく)たちからなまぬるい目で見られていたようです。

枕草子(まくらのそうし)の中には、二人の生き生きした日々が事細(ことこま)かに書かれています。
しかし実(じつ)は枕草子が書かれたのは、彼女の愛(あい)する定子が亡くなった後だったといいます。
主人を懐(なつか)かしんで、輝く日々を懐かしんで、一字一字(いちじいちじ)大切(たいせつ)に、思いをあふれさせながら書かれたのでしょう。

そこには政情(せいじょう)の不安(ふあん)などはほとんど書かれていません。
幸せだった日々だけを手のひらに拾(ひろ)い上げて愛(いと)おしむように書かれています。


6章 父、道隆の死

しかし幸(しあわ)せに満(み)ちた日々は実(じつ)は短(みじか)い間(あいだ)のことでした。
995年、18歳の時に父道隆が急死するとまだ年若い兄伊周(21歳)、弟隆家(16歳)はたちまち、道長(みちなが)や詮子(せんし)の手(て)で握(にぎ)りつぶされていくことになります。
華(はな)やかな美(うつく)しい定子の生活(せいかつ)は地獄(じごく)へ突(つ)き落(おと)されていくことになります。
*このころ疫病(えきびょう)が大流行(だいりゅうこう)し、貴族(きぞく)も庶民(しょみん)もバタバタと死んでいました。
今日(きょう)はあの人が死に、明日(あした)は誰(だれ)がしが死ぬという状況(じょうきょう)でした。

長徳元(ちょうとくがん)(995)年、定子の入内(じゅだい)からわずか5年で、中関白家(なかかんぱくけ)の栄華(えいが)に蔭(かげ)りが見え始(はじ)めます。
4月10日、定子の父・関白道隆(かんぱくみちたか)が流行(はや)り病(やまい)で病死(びょうし)。
糖尿病(とうにゅうびょう)もわずらっていたようですから体が弱っていたのかもしれません。
そして、悲(かな)しみひまもないうちに関白(かんぱlく)の後任(こうにん)をめぐって、道隆の弟(おとうと)・道兼(みちがね)と道隆の息子(むすこ)・伊周(これちか)との間(あいだ)に緊張(きんちょう)が走(はし)ります。

生前(せいぜん)の道隆は自分(じぶん)の持つ権力(けんりょく)は、当然息子(むすこ)伊周にと望(のぞ)んでいました。
しかし一条帝の母・東三条院(ひがしさんじょういん)詮子(せんし)の意向(いこう)で定子の叔父(おじ)の道兼(みちがね)に行きます。
道隆の死から半月以上過(はんつきいじょうす)ぎた27日、一条帝は道兼を関白としました。
道兼は花山天皇(かざんてんのう)を追(お)い落(お)とした中心人物(ちゅうしんじんぶつ)で、当然(とうぜん)その功績(こうせき)で自分(じぶん)が父兼家(ちちかねいえ)の後釜(あとがま)になれると信(しん)じていたのですが、権力(けんりょく)を継(つ)いだのは兄だったので、とても兄を憎(にく)しんでいたといいます。

容姿(ようし)は毛深(けぶか)く顔色悪(かおいろわる)くとても醜(みにく)く、性格(せいかく)も冷酷(れいこく)な人だったとか。
*現在では毛深い男性を好きな女性も多いと思いますが、この時代(じだい)は毛深(けぶか)い男性(だんせい)は嫌(きら)われました。
美形で愛されキャラの兄へのしっともあったのでしょう、多分(たぶん)。
虎視眈々(こしたんたん)と兄の権力(けんりょく)を狙(ねら)って生きてきたのですが、やっと権力を継(つ)いだ途端(とたん)数日後(すうじつご)に疫病(えきびょう)により病死(びょうし)してしまいます。
そのため七日関白(なぬかかんぱく)と呼ばれたそうです。
そのうえ花山天皇をだまし討(う)ちにあわせた人と死後(しご)も人びとからさげすまれました。
さんざんです。
野望(やぼう)のためだけに生きるってむなしいです。

この疫病(えきびょう)による死者(ししゃ)は、道兼だけではありませんでした。
2ヶ月余(あま)りの間に8人の公卿(くぎょう)のうち6人が亡くなってしまったのです。
一般民衆(いっぱんみんしゅう)は数(かぞ)えきれないくらい亡くなっていたことでしょう。
そして政権争(せいけんあらそ)いは、伊周と道長に移(うつって)っていきます。
伊周は、母・貴子(たかこ)の父である高階成忠(たかしなのなりただ)に様々(さまざま)な修法(ずほう)。
(願掛(がんか)け?)を行(おこな)わせたといいますが、旗色(はたいろ)は悪(わる)かったようです。
そもそも道長には、あの有名(ゆうめい)な陰陽師(おんみょうじ)安倍晴明(あべのせいめい)が付いていました。
道隆はこんなに早く自分が死なないと思っていたからか、まだ若い息子たちにありあまる権力を与(あた)えただけで、地盤(じばん)を固(かた)めておく努力(どりょく)はしていませんでした。
伊周は父親の守(まも)る大きな袖(そで)のなかでは、才能(さいのう)をイキイキ発揮(はっき)して一条天皇にも愛(あい)されていました。
しかし苦労(くろう)を一つもしなかったので、モロい、ガラス細工(ざいく)のような精神力(せいしんりょく)だったのかもしれません。
折(お)れやすい心(こころ)の優(やさ)しい美青年(びせいねん)が老獪(ろうかい)な道長にかなうはずがありません。
全(すべ)ての権力が怒涛(どとう)のように道長の元へ流(なが)れていくのですが、甘(あま)い坊(ぼ)っちゃんはまだ甘い見通(みとお)しをしていました。

この時道長(30歳)は公卿(くぎょう)の末席(まっせき)・権大納言(ごんだいなごん)でしかなかったので、大臣(だいじん)より低(ひく)い地位(ちい)の者(もの)が、ひと足飛(あしと)びに関白(かんぱく)になった例(れい)は滅多(めった)になかったのです。
一方(いっぽう)、内大臣(ないだいじん)である伊周(22歳)は、父の道隆も内大臣から関白に就任(しゅうにん)した経緯(けいい)がありますから、自分(じぶん)こそがとうぜん関白になれると思ったようです。
妹(いもうと)の定子は一条天皇に深(ふか)く愛されていますし、やがては皇子誕生(こうしたんじょう)もあるでしょう。
しかし一条はどちらを関白に選(えら)ぶか迷(まよ)いました。
内大臣の位(くらい)にあり、個人的(こじんてき)に信頼(しんらい)していて、愛する定子の兄の伊周か、貴族(きぞく)たちの多数(たすう)が支持(しじ)する道長か。
迷う一条帝に強(つよ)く道長を推(お)したのは、この時も母の東三条院詮子でした。

決定(けってい)は5月11日。
一条天皇は道長に「内覧(ないらん)」の宣旨(せんじ)をしました。
(内覧とは、天皇に先立(さきだ)って公文書(こうぶんしょ)に目を通す役職(やくしょく)のことです)
追(お)って6月19日、道長は太政大臣(だいじょうだいじん)・左大臣(さだいじん)が空席(くうせき)の状態(じょうたい)で、右大臣(うだいじん)に任命(にんめい)され、一躍(いちやく)公卿(くぎょう)のトップへと躍(おど)り上がったのです。
と同時(どうじ)に、藤原氏(ふじわらし)の「氏(うじ)の長者(ちょうじゃ)」となりました。
一条天皇は愛する妻(つま)定子を守(まも)るために、最初(さいしょ)は伊周に関白(かんぱく)を継(つ)がせようと思っていたようです。
しかしその一条の寝所(しんじょ)に母親(ははおや)詮子がズカズカのりこみ、伊周ではまだ若(わか)くて任(まか)せられない、ぜひとも弟道長に関白を譲(ゆず)れと涙(なみだ)ながらに迫(せま)ったそうです。
一条はこのヒステリーで気の強(つよ)い母(はは)が苦手(にがて)で、それでいて深(ふか)く愛(あい)していました。
結局(けっきょく)、その場(ば)で道長に宣旨(せんじ)をくだすことを約束(やくそく)します。
このとき一条天皇はまだ16歳(さい)だったのです。
詮子には息子(むすこ)を深(ふか)く愛する定子に嫉妬心(しっとしん)があったとも言いますが、本当(ほんとう)の所はよくわかりません。
定子は兄の子で、姪(めい)っ子です。
兄を疎(うと)んじていたとはいえ、兄の残(のこ)した遺児(いじ)を追い落とすという感覚(かんかく)はよくわかりません。
この時点(じてん)ではしっかりした実力(じつりょく)のある大人(おとな)の弟道長が権力(けんりょく)を握(にぎ)るほうが一条や藤原家、国(くに)のためにいいと、伊周では幼(おさな)すぎて任(まか)せられないと思っていただけかもしれません。
確かにこの後の伊周たちの駄々(だだ)っ子ぶりを見ると詮子の判断(はんだん)もあながち責(せ)められません。

また詮子の兄の道隆(みちたか)は、妻(つま)貴子(たかこ)の実家(じっか)の高階家(たかしなけ)を優遇(ゆうぐう)し、昇進(しょうしん)させて重用(ちょうよう)していました。
伊周が権力を握(にぎ)れば、ますます高階家(たかしなけ)が出しゃばり、藤原摂関家(ふじわらせっかんけ)の脅威(きょうい)になるかもしれないと
思ったかもしれません。
こうしてたちまち道長は権大納言(ごんだいなごん)から右大臣(うだいじん)に、そして左大臣(さだいじん)にのぼりつめます。
この時道長は30歳の男盛(おとこざか)りでした。
伊周たちの中関白家は、この時から藤原家の中心(ちゅうしん)から端(はし)っこへ追いやられます。
本家(ほんけ)から分家(ぶんけ)に落とされたのです。


7章  ピリピリする日々

苦労知(くろうし)らずで権力の中心にいた伊周・隆家の兄弟にとって、これは屈辱(くつじょく)でした。
忍耐(にんたい)の時と目立(めだ)たないように静(しず)かに時期(じき)を待っていれば、いずれ定子が皇子(こうし)を生み、飛躍(ひやく)することも出来(でき)たのかもしれませんが、彼らは精神的(せいしんてき)に幼(おさな)すぎました。
鬱憤晴(うっぷんば)らしのように次(つぎ)から次へと問題(もんだい)を起こしてしまいます。

7月24日、会議(かいぎ)の席(せき)で内大臣伊周(ないだいじんこれちか)は右大臣道長(うだいじんみちなが)と口論(こうろん)、激昂(げきこう)してあわやつかみ合いの状況(じょうきょう)に27日には隆家(たかいえ)と道長の従者同士(じゅうしゃどうし)が七条大路(しちじょうとおり)でけんか。
後日(ごじつ)、気の収(おさ)まらない隆家の従者(じゅうしゃ)が、なんと道長の従者を殺害(さつがい)してしまいます。
死者(ししゃ)まで出してしまっては、一条帝も処分(しょぶん)を下(くだ)さないわけにはいきません。
下手人(げしゅにん)を匿(かくま)ったとして、隆家には参内禁止(さんだいきんし)が言い渡(わた)されました。
困(こま)ったことです。
定子はこの一連(いちれん)の事件(じけん)をどんな思いで聞いていたことでしょうか。
後ろ盾(だて)だった愛(あい)する父を亡くし、こんな時こそ頼(たよ)りたい兄弟たちは子どものようなことをしでかす。
呆然(ぼうぜん)とする想(おも)いだったかもしれません。

翌年(よくねん)、事態(じたい)は更(さら)に悪(わる)いほうに進(すす)みます。
都(みやこ)に流(なが)れる不穏(ふおん)な空気(くうき)。

翌年(よくねん)4月、内大臣(ないだいじん)伊周と中納言(ちゅうなごん)隆家は、花山院奉射事件(かざんいんびしゃじけん)で左遷(させん)されることになるのです。

ことの発端(ほったん)は、噂(うわさ)の花山天皇が、比叡山(ひえざん)などでの修行(しゅぎょう)を終え、6年ぶりに都に帰(かえ)ってきたことでした。
高貴(こうき)な身分(みぶん)でありながら修行(しゅぎょう)を重(かさ)ねてきた僧(そう)と崇拝(すうはい)されつつも、本来(ほんらい)の色好(いろごの)みは直(なお)っていませんでした。

叔母(おば)の九の御方(おんかた)の屋敷(やしき)に居候(いそうろう)。
彼女(かのじょ)とは叔母甥(おばおい)の関係(かんけい)でありながら愛人(あいじん)でした。
他にも自分の乳母(うば)である中務(なかつかさ)、その娘(むすめ)である乳兄妹(ちきょうだい)の平子(ひらこ)。
この2人とも愛人で、それぞれ子供(こども)を産(う)ませています。
母親ほどの年の乳母と娘、実(じつ)のおば。
もちろん同じ屋敷に同棲(どうせい)。
男の理想(りそう)の酒池肉林(しゅちにくりん)です。
花山院は甥(おい)のニヒルな美男子弾正宮(だんじょうのみや)為尊親王(ためたかしんのう)も仲間(なかま)に引き入れ、男二人と三人の女たちとこの世(よ)の春(はる)を楽(たの)しんでいたとか。
ちょっと覗(のぞ)いて見たくなります。
その頃、花山院は昔(むかし)深(ふか)く愛した妻(つま)、弘徽殿(こきでん)の女御(にょうご)シ子の妹の四の君の元(もと)へ通(かよ)い出します。
面影(おもかげ)を愛したのかもしれません。
しかし同(おな)じ屋敷(やしき)には定子の兄伊周の恋人(こいびと)三の君がいました。
世間(せけん)では三の君は美人(びじん)、四の君は醜(みにく)いと評判(ひょうばん)でした。
世間の人たちの間では花山は四の君に通(かよ)うふりをして、伊周の彼女の三の君に手を出しているのではないかとうわさが流(なが)れます。
わざわざ醜い四の君に本気(ほんき)になるはずがないだろうと。
よけいなお世話(せわ)です。
しかし伊周もその噂(うわさ)を信(しん)じ恋に一途(いちず)な分、嫉妬(しっと)にかられてしまいます。
噂(うわさ)の本当(ほんとう)の所はわからないのにです。
純粋(じゅんすい)な色好(いろごの)み花山院のこと、。
単純(たんじゅん)な美醜(びしゅう)で女性(じょせい)を選(えら)んだりはしないと思いますが、四の君といい関係(かんけい)になりながら、姉の三の君にも色目(いろめ)を使(つか)っていてもおかしくはなかったかもしれません。
困(こま)った人です。

そして伊周と弟隆家は、この何重(なんじゅう)にも身(み)を慎(つつし)んで道長に好機(こうき)を与(あた)えないようにしなければいけないこの時に、とんでもない事件(じけん)を起(お)こしてしまいます。
うっぷんが溜(た)まっていたのでしょうが、危険(きけん)で愚(おろ)かな事件(じけん)です。
兄の意向(いこう)をくんだ隆家が、四の君のもとから帰(かえ)る花山院に矢(や)をはなつという暴挙(ぼうきょ)に及(およ)んでしまったのです。
矢は花山院の袖(そで)を貫通(かんつう)しました。
まさか殺(ころ)そうとしたとは思えず、脅(おどか)しだったのでしょう。

花山院は恐(おそ)れおののいて自分の屋敷に逃(に)げ帰り、この事件(じけん)を世間(せけん)から隠(かく)そうとしました。
この話は、いろいろな説(せつ)があり、隆家が矢(や)を放(はな)ったのは、花山院の屋敷(やしき)に向かってだとか、花山院の取(と)り巻(ま)きの悪僧(あくそう)と乱闘(らんとう)になり、そのうち二人の首(くび)をはねてしまったなど、いろいろです。
当時、この事件(じけん)を記録(きろく)した「栄花物語(えいがものがたり)」「小右記(しょううき)」「大鏡(おおかがみ)」などは道長が栄華(えいが)を誇(ほこ)ってから書かれているので、兄弟二人には実際(じっさい)よりも点(てん)がからく書かれていたでしょう。
現在(げんざい)では花山院とのトラブル自体(じたい)が道長のでっちあげだという説(せつ)すらあります。

花山院が隠(かく)そうとしたトラブルは、しかし世間(せけん)に知られることになります。
道長は舌(した)なめずりしてほくそ笑(え)んだことでしょう。
検非違使(けびいし)が動(うご)き出します
それは事件にかかわった者たちを隅(すみ)から隅まで取(と)り調(しら)べるものでした。
伊周と隆家は謹慎(きんしん)させられます。

こんな騒動(そうどう)の中、2月25日、定子は懐妊(かいにん)のため内裏(だいり)を退(さ)がり、一旦(いったん)、職御曹司(しきのみぞうし)という建物(たてもの)に移(うつ)ります。
本来(ほんらい)の予定(よてい)では11日だったのを、一条天皇は25日まで延期(えんき)させていました。
世上(せじょう)が不安(ふあん)で手放(てばな)すのが心配(しんぱい)だったからでしょう。
当時、出産(しゅっさん)は「穢(けが)れ」とされていたため、神聖(しんせい)な内裏を穢(けが)さぬよう、懐妊(かいにん)した后(きさき)は内裏を退(さ)がり、実家(じっか)に帰るのが決(き)まり事(ごと)でした。

3月4日、伊周と隆家の謹慎(きんしん)している実家・二条北宮(にじょうきたのみや)へ帰(かえ)ります。
ところが、職御曹司(しきのみぞうし)から実家(じっか)の二条北宮(にじょうきたのみや)へ移(うつ)る時、供(とも)をするはずの役人(やくにん)たちは道長を憚(はばか)って誰(だれ)も来ず、公卿(くぎょう)もたった2人でした。
伊周たちが謹慎中(きんしんちゅう)でなければ、妹(いもうと)に付き添えて少しは華(はな)やかに出来たでしょうに。
雨(あめ)の中、二条北宮に到着(とうちゃく)した後(あと)も恒例(かんれい)の宴(うたげ)が催(もよお)されることはありませんでした。
とても寂(さび)しい里帰(さとがえ)りでした。
父親(ちちおや)さえ生きていれば、盛大(せいだい)な宴(うたげ)がひらかれたでしょうに。


8章  豪風(ごうふう)の中の日々

「枕草子」にこの頃(ころ)のことと思われる清少納言と定子のやり取りが残されています。
「こんな騒々(そうぞう)しい世(よ)の中になってしまって、もうどこへでもいいから行ってしまいたいと思うような時でも、上等(じょうとう)の筆(ふで)や真っ白い紙などを手に入れると、それで気持(きも)ちがすっきりしてしまうんです」
と清少納言が言うのへ、「あら、そんなちょっとしたことで気持ちがなぐさめられるのね」と定子は微笑(ほほえ)みました。
定子と女房たちは変わらぬ日常(にちじょう)を心(こころ)がけていました。
しかし、運命(うんめい)はどこまでも定子にとって残酷(ざんこく)でした。
この頃(ころ)、道長の姉詮子(せんし)がにわかに病(やまい)を発症(はっしょう)し、大がかりな大赦(たいしゃ)が行われます。
道長は姉の見舞(みま)いに訪(おとず)れますが、とんでもないことをつげます。
詮子に呪詛(じゅそ)がかけられていたと。
寝殿(しんでん)の床(ゆか)から呪詛の証拠(しょうこ)が掘(ほ)り出された。
その呪詛(じゅそ)をかけた人物(じんぶつ)は伊周だと・・。
その当時でさえ道長が伊周を陥(おとし)れるためにでっち上げた。
偽(にせ)の呪詛(じゅそ)だと、まことしやかにささやかれました。
伊周が呪詛(じゅそ)をかけるとしたら道長にでしょう。
しかし詮子は弟を信(しん)じ激怒(げきど)します。
世間的(せけんてき)にも権力者(けんりょくしゃ)道長の言葉(ことば)は絶対(ぜったい)でした。
兄弟(きょうだい)には重(おも)い罰(ばつ)がかせられました。
花山院襲撃事件(しゅうげきじけん)から三か月後の4月24日、兄の伊周は大宰府(だざいふ)へ、弟の隆家は出雲(いずも)へ配流(はいる)が決定(けってい)します。
しかし重病(じゅうびょう)を理由(りゆう)に兄弟は、妊娠中(にんしんちゅう)の妹(三か月の身重(みおも)だったと言います)、定子が里帰(さとがえ)りしていた実家(じっか)にこもります。
これはどうなのでしょうか?
まだ三か月、流産(りゅうざん)の危険性(きけんせい)もあります。
決(き)まってしまった以上(いじょう)、別(わか)れだけを伝(つた)えて潔(いさぎよ)く配流(はいる)されたほうが良かったのではないではないかと思います。
しかし父親に甘(あま)やかされ何の苦労(くろう)もなく急激(きゅうげき)に出世(しゅっせ)した二人は幼(おさな)すぎました。

見苦(みぐる)しく隠(かく)れた結果(けっか)、定子の住(す)む屋敷(やしき)は、なんと検非違使(けびいし)に屋根裏(やねうら)から床下(ゆかした)まで
文字通(もじどお)り引(ひ)っぺがされ捜索(そうさく)されることになってしまいました。
しかし一条天皇が自分(じぶん)の初(はじ)めての子を妊娠中(にんしんちゅう)の愛妻(あいさい)の実家(じっか)を、無理(むりやり)やり捜索(そうさく)するように命令(めいれい)するわけもなく、全(すべ)て、道長の独断(どくだん)でした。
いずれわが娘(むすめ)を入内(じゅだい)させるつもりの道長。
天皇の第一子(だいいっし)を妊娠中(にんしんちゅう)の定子など邪魔(じゃま)な存在(そんざい)でしかなかったのです。
あわよくばショックで流産(りゅうざん)してくれたら・・ぐらいのことは思(おも)っていてもおかしくはありません。
一条帝には、定子はあらかじめ、安全(あんぜん)な所へ移(うつ)すとつたえられたようです。
しかし実際(じっさい)は粗末(そまつ)な牛車(ぎっしゃ)におしこめられ屋敷内(やしきない)におかれていたようです。
初(はじ)めての妊娠中(にんしんちゅう)、つわりのひどい頃(ころ)・・さぞつらかったことでしょう。

妊娠中の中宮(ちゅうぐう)への信(しんじ)じられない処遇(しょぐう)に、なにごとかと集(あつ)まった市井(しせい)の人々も同情(どうじょう)して涙(なみだ)したと言います。
*市井→一般庶民(いっぱんしょみん)
この時、隠(かく)れていた弟、隆家はみじめに引きずり出され定子の目の前で捕(と)らえられます。
定子と隆家、離(はな)れたくないとつないだ手を、無理(むりやり)やり引き離(はな)されたといいます。

弟が目の前で検非違使(けびいし)に捕(とら)らえられた衝撃(しょうげき)は定子にとって耐(た)えられないものでした。
とても仲(なか)のいい姉弟(きょうだい)だったのです。
自(みずか)ら髪(かみ)を切(き)ってしまいます。
定子にとっては自分(じぶん)が髪(かみ)を下(おろ)すことで、兄と弟の罪(つみ)が、少しでも軽(かる)くなればという想(おも)いもあったかもしれません。
しかしいくら出家(しゅっけ)するにしても、高貴(こうき)な姫君(ひめぎみ)が自(みずか)ら切ってしまうということは異例(いれい)のことです。
妊娠中(にんしんちゅう)の気持(きも)ち的(てき)にも不安定(ふあんてい)な時期(じき)だったことも影響(えいきょう)したのではないでしょうか。
自分たちを追い込んだ道長とは叔父(おじ)と姪(めい)の関係(かんけい)で一時は定子の中宮大夫(ちゅうぐうしき)を務(つとめ)めたこともありました。
親(した)しく言葉(ことば)を交(か)わしたこともあったでしょう。
父の死により始(はじ)まった骨肉(こつにく)の争(あらそ)いを終わらせたかったのかもしれません。

この知(し)らせを受(う)けた一条帝は、髪(かみ)を下ろすほどに追(お)い込んだのは自分だと自らを責(せ)めました。
そして、こぼれる涙(なみだ)を隠(かく)したといいます。
泣(な)いているひまがあったら、どんなにそしられようと彼女(かのじょ)の元へ駆(か)けつけろ!と思いますが、時代(じだい)も違(ちが)いますからそうもいかなかったのでしょう。

屋敷(やしき)から辛(から)くも抜(ぬ)け出し逃亡(とうぼう)していた伊周は、頭(あたま)をそった僧侶姿(そうりょすがた)で3日後に発見(はっけん)されました。
それは、完全敗北姿(かんぜんはいぼくすがた)でした。
そしていざ配流(はいる)となると母とともに行きたいと願(ねが)い出ますが、もちろん却下(きゃっか)されます。
それでも勝手(かって)に一緒(いっしょ)に出発(しゅっぱつ)してしましました。
結局(けっきょく)引き離(はな)されてしまいました。
出産(しゅっさん)を控(ひか)えた定子のそばにこそ母親(ははおや)が必要(ひつよう)なはずですが・・。
理解(りかい)に苦(くる)しみます。
そうして兄と弟は、病気療養中(びょうきりょうようちゅう)を理由(りゆう)に、
当分のあいだ伊周は播磨国(はりまのくに)に、隆家は但馬(たじま)に据(す)え置(お)かれることになりました。

お母さん貴子は心配が重(かさ)なり重(おも)い病(やまい)におちてしまいます。
そうして病気(びょうき)がいよいよ重(おも)くなり伊周は密(ひそ)かに入京(にゅうきょう)。
母を見舞(みま)いますが捕(とら)えられ、今度(こんど)こそ、大宰府(だざいふ)に流(なが)されることになります。
出発(しゅっぱつ)したのは12月でした
気落(きお)ちした母の貴子はとうとう亡(な)くなってしまいます 。

そんな中、追(お)い打ちをかけるように実家(じっか)が火事(かじ)で全焼(ぜんしょう)してしまったのです。
定子はなんと下男(げなん)に抱(だ)きかかえられて避難(ひなん)したといいます。
そうして身(み)を寄(よ)せたのは、叔父(おじ)である高階明順(たかしなあきのぶ)の邸(やしき)でした。
しかし実家(じっか)を離(はな)れたそこでの生活(せいかつ)で、逆(ぎゃく)に定子はしっかりと現実(げんじつ)を受け止め、常(つね)の日々を取り戻(もど)していったようです。

ある貴族(きぞく)が定子のもとを訪(おとず)れたことがありました。
女房たちの衣装(いしょう)は昔(むかし)と変わらず季節(きせつ)に合わた色で華(はな)やかに並(なら)んでいたそうです。
ところが、庭(にわ)には雑草(ざっそう)が茂(しげ)っています。
気の利(き)かないこの男は刈(か)り取ってしまえばいいのにと言います。
すると一人の女房が、定子さまが草(くさ)に露(つゆ)をおかせて楽(たの)しんでいらっしゃると答(こた)えました。
いくら何でも、雑草に露をおかせて愛(め)でるとは・・と不思議(ふしぎ)に思ったと言います。
しかし父親が亡くなったあとの中関白家(なかのかんぱくけ)は落ちぶれてしまい、使用人(しようにん)たちは雪崩(なだれ)のごとく去(さ)っていたと言います
世知辛(せちがら)い世の中です。
それだからこそ、火事(かじ)の時も、忠実(ちゅうじつ)に、定子の元(もと)にずっと仕(したが)えていた下男(げなん)が抱(だ)きかかえ逃(に)げることになったのでしょう。
普通(ふつう)ならもう少(すこ)し身分(みぶん)の高(たか)い武士(ぶし)が傍(そば)につかえていて、牛車(ぎっしゃ)に乗せて逃げていたはずです。
逃げるための車の仕度(したく)もできず、庭(にわ)の草(くさ)を刈(か)らせる下男にも不自由(ふじゅう)していたのでしょう。
そんな困窮(こんきゅう)した生活(せいかつ)の中にあっても、定子は、人に雑草(ざっそう)を刈(か)らないのか聞かれて、葉(は)に玉(たま)のようにつく露(つゆ)を楽(たの)しんでいると言うユーモアがあったのです。

そのころ清少納言は自宅(じたく)に引きこもっていました。
ちょうど里帰(さとがえ)りしている間(ま)に、あの騒動(そうどう)が起き、清少納言は道長のスパイという酷(ひど)い噂(うわさ)が流(なが)れたのです。
定子に一途(いちず)な彼女にはひどい屈辱(くつじょく)でした。
しかし同僚(どうりょう)だった女房達(にょうぼうたち)からも総(そう)スカンされる中、定子も自分を嫌(きら)っているかもしれないと思うと戻(もど)るに戻れなくなってしまいます。

そんなモンモンとしていた時、定子から彼女に美(うつく)しい紙(かみ)が送られてきます。
前に
「こんな騒々(そうぞう)しい世(よ)の中になってしまって、もうどこへでもいいから行ってしまいたいと思うような時でも、上等(じょうとう)の筆(ふで)や真っ白い紙(かみ)などを手に入れると、それで気持(きも)ちがすっきりしてしまうんです」
と清少納言が言ったのを定子は覚(おぼ)えていたのです。
定子は少しも彼女を疑(うたぐ)っていませんでした。
それどころか早(はや)く顔(かお)が見たくて、当時はとても貴重(きちょう)だった紙を贈(おく)ったのです。

ーあなたは前に上等(じょうとう)の紙を手に入れたら気持(きも)ちがスッキリすると言ったでしょ? 気持ちをきりかえて、早く私の元へ戻(もど)ってきてちょうだいー

もちろん清少納言は飛(と)ぶように定子の元に戻ります。
彼女はこの時の喜びを「神(紙、かみ)のおかげで千年(せんねん)生きる鶴(つる)になってしまいそう」と記(しる)しています。
やがてこの紙には、「枕草子」が書かれることになります。

そうやって参上(さんじょう)したものの気遅(きおく)れがして、几帳(きちょう)の陰(かげ)に隠(かく)れていました。
定子は目ざとくそれを見つけて、「あれは新人(しんじん)の女房かしら?」と笑(わら)いました。
「お前がいなくては心(こころ)が休(やす)まらないわ」と言う定子を見て、清少納言は「中宮さまはちっともお変りになっていらっしゃらない」と思います。
実際(じっさい)には定子は尼姿(あますがた)に変わっていましたし、周囲(しゅうい)の雰囲気(ふんいき)も大きく変わっていたでしょう。
しかし愛ゆえに清少納言には定子がもとのままの輝(かがや)く姿(すがた)に見えたのでしょう。
そうした日々の中で定子は脩子(しゅうし)内親王(ないしんのう)を出産(しゅっさん)します。
腕(うで)の中の温(あたたか)かい温(ぬく)もりは定子にとって希望(きぼう)の灯(あか)りでした。

9章 一条の激(はげ)しい愛

すぐに一条帝は勅(ちょく)を出し、定子に絹(きぬ)や綿(わた)を贈(おく)りました。
そうすることによって、正式(せいしき)な我(わ)が子だと広(ひろ)く世に示(しめ)したのです。
また、東三条院詮子(ひがしさんじょういんせんし)も大喜(おおよろこ)びで、父である一条帝よりも早(はや)く脩子(しゅうし)と対面(たいめん)しました。
詮子にとっても初孫(はつまご)です。

997年2月、誕生(たんじょう)50日の脩子を呼び寄せ、生まれた子の健康(けんこう)と長寿(ちょうじゅ)を祈(いの)る儀式(ぎしき)をしました。
続(つづ)けて東三条院(ひがしさんじょういん)詮子の病状(びょうじょう)が改善(かいぜん)しなかったため(もともと呪(のろ)いなどなかった証拠(しょうこ)です)大赦(たいしゃ)が行(おこな)われて早くも伊周と孝家の罪(つみ)は許(ゆる)され京に戻(もど)されます。
定子はさぞホッとしたことでしょう
意外(いがい)なほど甘(あま)い処置(しょち)です。
道長にとっては権力(けんりょく))を握(にぎ)るため邪魔(じゃま)な駄々っ子(だだっこ)の甥(おい)を一時(いちじ)、遠(とお)い知りあいにあずけたぐらいの感(かん)じもします。
後(のち)の世に島根(しまね)の隠岐島(おきのしま)に島流(しまなが)しされた。
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)などへの処置(しょち)とは大きく違(ちが)います。
定子のために一条天皇が尽力(じんりょく)したのでしょう。
それに定子から生まれたのが皇子ではなく内親王(ないしんのう)だったことが道長の気持ちを和(やわ)らげたのもあったでしょう。
その上(うえ)定子は尼姿(あますがた)。
もう、恐(おそ)れることはないと思ったのかもしれません。

道長にとって、皇子を生む可能性(かのうせい)のある定子ほどには伊周(これちか)は脅威(きょうい)ではなかったのでしょう。
しかし道長の思わくは、一条天皇の異常(いじょう)なほどの愛(あい)の前に崩(くず)れ去(さ)ってしまいます。
定子の産(う)んだ内親王は、一条にとっても初(はじ)めての子供(こども)、可愛(かわい)い姫(ひめ)です。
しかも最(もっと)も愛する人の娘(むすめ)。
一条は「早く会いたい」と強(つよ)く望(のぞ)みました。
しかし一条が会いたかったのはもちろん娘だけではなく定子にもでした。
道長にとっては、一条に嫁(とつ)がせたい自(みずか)らの娘、彰子がまだ幼(おさな)すぎて、入内には数年(すうねん)またなければいけない状態(じょうたい)で一条の唯一(ゆいいつ)の妻定子を参内(さんだい)させることは絶対(ぜったい)に避(さ)けたいことでした。
道長におもねる貴族(きぞく)たちの反対(はんたい)。
尼姿(あますがた)の定子を参内(さんだい)させることに常識(じょうしき)のめん)から反対(はんたい)する者(もの)たち。
深(ふか)く愛しあう二人へのしっとからの陰口(かげぐち)やそしりもあったでしょう。

しかし一条はまわりの強い反対(はんたい)を押(お)しきって、出家(しゅっけ)した定子を強引(ごういん)なまでな強(つよ)さで宮中(きゅうちゅう)に呼び戻しました。
これ以上(いじょう)離(はな)れていることは耐(た)えられなかったのです。
男前(おとこまえ)です。
道長が天皇を凌駕(りょうが)するほどの権力(けんりょく)を握(にぎ)っているとき、一条にはただ一つ強力(きょうりょく)な武器(ぶき)がありました。
譲位(じょうい)です。
一条が帝の地位(ちい)を捨てて冷泉帝の皇子三条が天皇になれば、母の詮子(せんし)の希望(きぼう)はつい得てしまいます。
道長にしても娘の彰子が一条の皇子を生むまでは是(ぜ)が非(ひ)でもそれは避けたいことでした。
譲位(じょうい)されてしまっては元も子もないのです。

定子の出家が、正式(せいしき)なものではなかったことも彼(かれ)の熱(あつ)い思いを後押(あとお)ししました。
定子は自(みずか)らの手で髪(かみ)を切っただけで、正式(せいしき)に僧(そう)によって尼(あま)になる儀式(ぎしき)を受けたわけではありません。
その場合(ばあい)、夫(おっと)や恋人(こいびと)は離別(りべつ)を拒否(きょひ)することができました。
もし定子が心の底(そこ)から出家を望(のぞ)んだのなら、出産後(しゅっさんご)にでも正式に僧をよんで出家(しゅっけ)できたはずでした。
しかし一条から必死(ひっし)の思いで止(と)められていたのでしょう 。
また赤ちゃんが生まれて胸(むね)に抱(だ)いた時、出家したいという彼女の心は変わったのかもしれません。
世を捨(す)てれば、手元(てもと)で育(そだ)てることは許(ゆる)されなかった可能性(かのうせい)が高(たか)いのですから。

6月22日、一条帝は母・東三条院詮子(ひがしさんじょういん)せんし)の見舞(みま)いに出かけ、目立(めだ)たぬようにその間(あいだ)に定子を職御曹司(しきのみぞうし)に移(うつ)しました。
本来(ほんらい)は中宮職(ちゅうぐうしき)の事務(じむ)を取り扱(あつか)う場所(ばしょ)です。
出家した中宮との復縁(ふくえん)という前代未聞(ぜんだいもん)の行為(こうい)を、世の人々が黙(だま)っているはずがありません。
彼はすべてを覚悟(かくご)して踏(ふ)み切りました。

とはいえ、うるさい世間(せけん)の目から彼女をかばうために、いきない内裏(だいり)の中ではなく、ギリギリ内裏から外(はず)れた「職御曹司(しきのみぞうし)」に移(うつ)したのです。
一条は清涼殿(せいりょうでん)と職曹司(しきのぞうし)は距離(きょり)がありすぎるということで、清涼殿の近(ちか)くの部屋(へや)に定子を呼び寄せ、天皇自(みずか)らが定子の許(もと)に通うという、異例(いれい)の形(かたち)をとりました。
強引(ごういん)なやり方ですがそれほどに会いたかったのでしょう。

昔(むかし)定子が住んでいた登花殿(とうかでん)や凝花舎(ぎょうかしゃ)(梅壺(うめつぼ))に比(くら)べれれば、住み心地(ごこち)はかなり悪(わる)かったと思われます。
職御曹司(しきのみぞうし)は事務所(じむしょ)のような場所(ばしょ)で、手狭(てぜま)でもあったでしょう。
しかし定子と女房達(にょうぼうたち)は、参内(さんだい)の時の上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじょうびと)の先駆(さきが)けの声の違いを聞き覚えて女房たちで言い当ててみたりと、奥(おく)の部屋(へや)ではわからなかった珍(めず)しさを楽(たの)しんでいたといいます。
定子が職御曹司(しきのみぞうし)へ移(うつ)る時に一条帝は公卿(くぎょう)たちに随行(ずいこう)を命(めい)じていました。
が、それに従(したが)ったのはたった1人でした。
道長の目を恐(おそ)れてのことでしょう。
冷(つめ)たい世の中です 。

それでも後(うし)ろ盾(だて)を無(な)くした後も、華(はな)やかで温(あたた)かい彼女(かのじょ)のサロンには、多(おお)くの貴族(きぞく)の若者たちがが集(あつ)まりにぎわっていたと言います。
青年(せいねん)になった一条の愛情(あいじょう)もますます強(つよ)くなるばかりでした。
その頃(ころ)のエピソードです。

清少納言たちが寝ている廂(ひさし)の間(ま)に、朝早(あさはや)くから定子と一条天皇が二人でひょいっと遊(あそ)びに来ました。
深窓(しんそう)の姫君(ひめぎみ)は立ち歩くことさえまれ・・とか言われた時代です。
慌(あわ)てる清少納言たちを見て、微笑(ほほえ)まれたとか。
天皇と皇后(こうごう)がいることも知らず、平素(へいそ)どおりに詰所(つめしょ)に出入りする役人達(やくにんたち)をこっそり眺(なが)めて、「バラさないでね!」と、面白(おもしろ)そうに眺(なが)めていたそうです。
悲劇(ひげき)の中宮と後世(ごせ)に言われるにふさわしくない、おきゃんで楽(たの)しそうな日常(にちじょう)です。
堅苦(かたくる)しい宮中(きゅうちゅう)で、一条と定子、出来る範囲(はんい)で自由(じゆう)にしていた雰囲気(ふんいき)が伝(つた)わります。
激変(げきへん)する運命(うんめい)の中で日々の幸(しあわ)せをせいいっぱい心にすい込もうという強(つよ)さが伝わってきます。


10章 彰子(しょうし)の裳着(もぎ)

定子が脩子(しゅうし)内親王(ないしんのう)出産(しゅっさん)で里退(さとが)えりしている間、宮中(きゅうちゅう)では大きな変化(へんか)がありました。
姫君たちが次々入内したのです。
道隆が生きている間は他の貴族たちに娘を入内(じゅだい)させるチャンスはありませんでした。
しかしその道隆は死にました。
これを好機(こうき)にと、まず7月に大納言藤原公季(きんすえ)の娘・義子(23歳)が、次いで11月には右大臣顕光(あきみつ)の娘・元子(18歳)が、新たな女御となりました。

それには定子と一条を2人きりの夫婦(ふうふ)のままにして愛情(あいじょう)をますます強くさせたくなかった道長の意向(いこう)もありました。
彼の掌中(しゅちゅう)の珠(たま)・彰子はまだ9歳、入内させるには早すぎたので。
彼は他の貴族たちとの調和(ちょうわ)と定子への牽制(けんせい)のために、この入内を利用しました。
それどころか、道長から入内を勧(すす)めたともいいます。
元子と義子(よしこ)は定子の不在中(ふざいちゅう)それぞれにお互いへの闘争心(とうそうしん)をむき出しにしていたといいます。
そして早くも、右大臣顕光(あきみつ)の娘・元子に懐妊(かいにん)の兆(きざ)しがみえました。
知らせを受けた顕光は狂喜乱舞(きょうきらんぶ)します。
里帰りの時に承香殿(じょうこうでん)を出て、弘徽殿(こきでん)の前を通りかかった時のことです。
弘徽殿では元子の退出(たいしゅつ)の行列(ぎょうれつ)を見ようと、義子(よしこ)付きの女房たちが集まってきており、御簾(みす)の裾(すそ)が膨(ふく)らんだ形になっていました。
それを見た元子付きの女(め)の童(わらわ)の1人が、「まあ、こちらでは御簾(みす)だけが孕(はら)んでいるわ」といわなくていいことを言ってのけたのです
心無(こころな)い言葉(ことば)です。
当然義子がわの恨(うら)みは大変なものだったと言います。
元子は特別(とくべつ)に輦車(てぐるま→人が手でひいた車)を許(ゆる)され、華々(はなばな)しく退出(たいしゅつ)しました。
ところが、出産(しゅっさん)のときに、赤ちゃんの代わりに元子の体内(たいない)から水が流(なが)れ出しました。
破水(はすい)かと思われましたが、ただ水が流れてゆくばかりで、お腹(なか)はどんどんしぼんでいきます。
今でいう想像妊娠(そうぞうにんしん)か、腹水病(ふくすいびょう)だったのでしょうか。
世間(せけん)は「水を産んだ女御(にょうご)」「素腹(すばら)の女御」として、笑いものにしたと言います。
元子は落胆(らくらん)と恥(は)ずかしさのあまりもう内裏(だいり)には上がれない、とこの後しばらく実家(じっか)に引きこもってしまいます。
一条帝はそんな彼女を労(いたわ)り、「元気になったらまた参内するように」と伝えたといいます。
一度は再(ふたた)び内裏に上がるのですが、やはり居心地(いごこち)が悪かったのか、実家(じっか)に戻ってしまいます。

長保元年(ちょうほうがんねん)(999年)2月になって、ついに道長の野望(やぼう)の星(ほし)、娘の彰子の裳着(もぎ)の式(しき)がとり行われました。
道長のまぶたに移(うつ)るのはシンデレラ(?)の階段(かいだん)を上る彰子の姿(すがた)かはたまた未来(みらい)の天皇のおじいちゃまになる自分(じぶん)の姿か・・。
ともかくようやく手持(ても)ちのカードを出すチャンスがやってきたのです。
公卿(くぎょう)たちも集まり、賑(にぎ)やかに宴(うたげ)が催(もよお)されました。

翌々日(よくよくじつ)には、彰子は朝廷(ちょうてい)から従三位(じゅさんみ)の位(くらい)を与(あた)えられました。
皇室関係者(こうしつかんけいしゃ)や東三条院詮子、貴族たちから様々な美しい贈(おく)り物が届(とど)きます。
この時、定子も従妹(いとこ)に香壺(こうご)ひと揃(そろ)いを贈(おく)ったといいます。
運命(うんめい)とは皮肉(ひにく)なもので、彰子の裳着(もぎ)の行(おこな)われた2月の時点(じてん)で、定子は二人目の御子(みこ)を懐妊(かいにん)していました。
定子の参内(さんだい)を許したときに当然想定(そうてい)していた事態(じたい)ですが、いざ現実(げんじつ)のものとなると、道長の野望(やぼう)のたぎる胸(むね)は激(はげ)しくざわついたことでしょう。

11章 二人目の子の出産

同年8月、定子は出産準備(しゅっさんじゅんび)のため内裏を退出(たいしゅつ)することになりました。
退出先は、本来(ほんらい)なら中宮御所(ちゅうぐうごしょ)には相応(ふさわ)しくない、前但馬守平生昌(ぜんたじまのかみたいらのなりまさ)の三条邸(さんじょうてい)でした。
尼姿(あますがた)ではあっても中宮の地位(ちい)にあることに変わりはないので、当然その退出は「行啓(ぎょうけい))」となるはずですが、道長の目をおそれて誰(だれ)もその行啓を指揮(しき)したがらなかったのです。
本来(ほんらい)それらの指揮は中宮大夫(ちゅうぐうしき)が執(と)り行うべきなのですが、当時、中宮大夫は生昌の兄が道長に取り入るために辞(や)めてしまい
空席(くうせき)のままで、なり手のない有様(ありさま)でした。
道長はその大事(だいじ)な日、人々を引きつれて早朝(そうちょう)から宇治(うじ)の別荘(べっそう)に出かけ、一泊(いっぱく)しています。
いわば定子を無視(むし)するという宣言(せんげん)であり、露骨(ろこつ)ないじめでした。
天皇の勅命(ちょくめい)により公卿代表(くぎょうだいひょう)が供(とも)をすることになっていましたが、道長の露骨(ろこつ)な態度(たいど)におそれおののいて、だれも傍(そば)に仕(したが)えようとはしませんでした。
このへんの大人(おとな)げなさ、道長の小物(こもの)ぶりを感じます。
紫式部(むらさきしきぶ)に言い寄ってフラれていますが、知的(ちてき)な彼女には、こういう矮小(わいしょう)な部分(ぶぶん)が見えていたのではないでしょうか。
貴族たちは最高権力者(さいこうけんりょくしゃ)道長について宇治(うじ)に行くか、天皇になる男子を生む可能性(かのうせい)のある定子につくか迷(まよ)っていました。
当時の貴族たちの日記(にっき)によると、道長について宇治に行ったものもいたけれど、多くはどっちつかずで屋敷(やしき)にこもっていたようです。

生昌(なりまさ)は気が利(き)かない人ですが実着(じつちゃく)で、空気(くうき)を読むのが下手(へた)だからこそ道長にへこへこしないでひきうけられたのです。
身重(みおも)で、まだ若(わか)い24歳の定子はこれらの現実(げんじつ)をどんな心境(しんきょう)で耐(た)え忍(しの)んだのか。
しかしそば近く従(したが)えた清少納言の書いた当時の記録「枕草子」には定子の耐え忍ぶような暗(くら)い面(めん)は、かけらも書かれていません。
単(たん)に暗い面は書きたくなかったのか。
一条に愛(あい)される幸(しあわ)せや、これから生まれる子供への母親(ははおや)らしい希望(きぼう)、かわいいさかりの脩子(しゅうし)内親王(ないしんのう)。
周囲(しゅうい)の汚(きたな)い思惑(しわく)など関係(かんけい)ない所に彼女の心は向いていたのでしょう。
それに身分(みぶん)が落ちたからこその自由(じゆう)な心境(しんきょう)もあったのかもしれません。
彼女はすでに多(おお)くの修羅場(しゅらば)をくぐり抜(ぬ)けてきました。
だからこその芯(しん)の強(つよ)さを持ちえたのかもしれません。
枕草子の中で、定子はいつも明(あか)るく微笑(ほほ)んでいます。

平生昌邸(たいらのなりまさてい)に入った時も、生昌(なりまさ)の配慮(はいりょ)が足(た)りないせいで、門(もん)が狭(せま)くて牛車(ぎっしゃ)が入るのにも一苦労(ひとくろう)、結局(けっきょく)、女房達(にょうぼうたち)は雨(あめ)のぬかるみの中を筵(むしろ)を敷(し)いて歩いて邸に入らなければならなくなりました。
清少納言は殿上人(でんじょうびと)や下級役人(かきゅうやくにん)にジロジロみられて不愉快(ふゆかい)だったとブウブウ文句(もんく)を言い、生昌気の利(き)かなさをみんなの間で笑(わら)いものにしました。

かって定子の兄伊周(これちか)が、病(やまい)の母会いたさに、但馬(たじま)の国から京にこっそり戻(もど)ってきたのを密告(みっこく)したのが実はこの生昌でした。
彼にしてみれば生真面目(きまじめ)すぎる性格(せいかく)からの密告(みっこく)だったのでしょうが、そのせいで伊周には実刑(じっけい)である大宰府(だざいふ)への移送(いそう)が決まりました。
また道隆に可愛がられ定子の中宮大夫をしていた生昌の兄は、事件(じけん)のおりに、さっさと職務(しょくむ)を放(ほう)り投げ、道長に取り入って出世(しゅっせ)しています。
その恨(うら)みが清少納言のどこかに引っかかっていて、必要以上(ひつよういじょう)にイライラしたのかもしれません。
しかし定子は、生昌が女房たちにやりこめられて逃げ出すのを庇(かば)って「気をつわずにすむ生昌の家(いえ)だからといって、人に姿(すがた)を見られないことなどないでしょう。なぜ気が緩(ゆる)んでいたのです」と笑ってとりなしました。
おおらかで優(やさ)しい人柄(ひとがら)を感じます。
生昌は裏表(うらおもて)のないまじめすぎるぐらいの人で、後(うし)ろ盾(だて)のない定子に誠心誠意(せいしんせいい)仕(したが)えたようです。
しかし清少納言は生真面目(きまじめ)すぎる彼(かれ)をつどつど笑いものにし、そのたび定子に止(と)められていました。

清少納言にとって定子はどこまでも美(うつく)しく優(やさ)しい存在(そんざい)でした。
それを際立(きわだた)たせるため、清少納言は自(みずか)らを愚(おろ)かで、どこかこっけいな存在(そんざい)に置(お)いているようにすら感じます。
定子自身にも日ごろの不満(ふまん)や孤独(こどく)、恨(うら)みや悲(かな)しみがあったと思いますが、そのほとんどを、誰(だれ)よりも信頼(しんらい)する清少納言が吐(は)き出してくれることで、彼女(かのじょ)は安心(あんしん)して微笑(ほほえ)んでいられたのかもしれません。


12章  彰子入内と定子の皇子誕生

続けて11月1日道長は娘彰子(しょうし)を入内させます。
彰子は12歳の美少女(びしょうじょ)でした。
入内には公卿たちが10数人随行(ずいこう)、才色兼備(さいしょくけんび)の女房(にょうぼう)40人を連(つ)れての入内でした。
その中には赤染衛門(あかぞめえもん)、和泉式部(いずみしきぶ)、伊勢大輔(いせのだいふ)などがいました。
紫式部の出仕(しゅっし)はこの数年後(すうねんご)です。
着物(きもの)や花嫁道具(はなよめどうぐ)も絢爛豪華(けんらんごうか)でした。
書籍(しょせき)好きな天皇のために、彰子の部屋(へや)を、まるで図書館(としょかん)のような本だらけの部屋にしたというエピソードもあります。

7日、彰子は女御(にょうご)となり、その夜(よる)初(はじ)めて一条帝の訪問(ほうもん)を受けることになりました。
道長は公卿たちを彰子の後宮(こうきゅう)に呼び、宴(うたげ)を催(もよお)すことにしました。
とはいえ当時20歳の一条に、いくら美少女(びしょうじょ)でも幼(おさな)い彰子は恋愛相手(れんあいあいて)にはならず、定子への愛情(あいじょう)は少しも減(へ)ることはありませんでした。
その上、宴中(うたげちゅう)の7日未明(みめい)、一条帝はひとつの連絡(れんらく)を受けていたのです。
定子に男子誕生(だんしたんじょう)、と第一皇子(だいいちこうし)・敦康親王(あつやすしんのう)です。
伊周たちは一族(いちぞく)の再興(さいこう)になると大喜(おおよろこ)びでした。
道長は歯(は)ぎしりしました。
何の後(うしろ)ろ盾(だて)も持たない定子でしたが、一条天皇の第一皇子・敦康親王(あつやすしんのう)を生んだことの意味(いみ)は大きいものでした。
名ばかりとはいえ、なんといっても中宮の産んだ皇子です。
また、詮子にしても、自分の初めての男の孫(まご)です。
初孫(はつまご)の脩子内親王(ないしんのう)と共(とも)に目に入れても痛(いた)くないほどのかわいがり様でした。
ひいきの弟道長の娘が入内したとはいえ、彰子は現代(げんざい)で言う小学5~6年生の子どもですから、まだ赤ちゃんは当分は期待(きたい)できない状況(じょうきょう)でした。

2月18日には、一条帝のもと、敦康の誕生百日祝(たんじょうひゃくにちいわい)いが行われました。
道長としては、いずれ娘(むすめ)が男皇子(おとこみこ)を生むことを考えて、位だけでもいまのうちに定子と同位にした伊と思いました。
翌年(よくねん)2月、定子は「皇后(こうごう)」に、彰子が強引(ごういん)に「中宮」とされます。
一代の天皇に正妻(せいさい)である后(きさき)が二人、という異様(いよう)な状態(じょうたい)です。
13歳の中宮は、定子の14歳の記録(きろく)を抜(ぬ)いて最年少(さいねんしょう)です。
道長は公卿(くぎょう)や皇族(こうぞく)を招(まね)き、盛大(せいだい)な宴(うたげ)をひらきました。
一条天皇としては彰子の立后(りっこう)は本意(ほんい)ではなく、道長の権威(けんい)に屈(くっ)したようにも見えるのですが、逆(ぎゃく)に考(かんが)えれば、そうでもして、定子の皇后としての地位(ちい)をを守(まも)りたかったのでしょう。
道長が何かしらの理由(りゆう)をこじつけて、定子の皇后(こうごう)の位(くらい)を剥奪(はくだつ)するような暴挙(ぼうきょ)に及(およ)ぶ可能性(かのうせい)もあったからです。
定子と敦康親王(あつやすしんのう)母子(ぼし)を守(まも)るためにも、将来(しょうたい)敦康親王が天皇につくためにも、いま定子が皇后でい続(つづ)けることはとても重要(じゅうよう)なことでした。
貴族(きぞく)たちは、もちろん男子誕生(だんしたんじょう)の知らせは聞いていますが、定子のもとに祝(いわ)いに行った者(もの)はいませんでした。
彰子の方に集(あつ)まったのです。

13章 別(わか)れ

ところで、定子と彰子は一条帝をはさむ、ライバルとして宮中(きゅうちゅう)で争(あらそ)ったように思われがちですが、実際(じっさい)には会ったことはありませんでした。
彰子が入内(じゅだい)した時には定子は出産のため平生昌(なりまさ)邸(てい)にいて、彰子が里帰(さとがえ)りすると内裏(だいり)に戻(もど)りました。
定子の滞在中(たいざいちゅう)は彰子は留守(るす)で、定子がまた生昌邸(なりまさてい)に移(うつ)ると帰ってきました。
こういう風(ふう)にして、一条帝が気を使っていたのです。
それに彰子が入内してから長(なが)くは定子は生きてはいませんでした 。
彰子が中宮になった。
1ヶ月後の3月27日、皇后となった定子は3人目の子どもを身(み)ごもり、内裏を退出(たいしゅつ)しました。
ただしこの時の退出は、慣例(かんれい)の妊娠(にんしん)3ヶ月より早かったようです。
里帰(さちがえ)り中の彰子が宮中(きゅうちゅう)に戻るため道長側(みちなががわ)から圧力(あつりょく)があったようです。
この年も昨年(さくねん)と同様(どうよう)、平生昌邸(たいらのなりまさてい)に入りました。

昨年(さくねん)敦康親王(あつやすしんのう)を出産(しゅっさん)したばかりで、定子はまだ完全(かんぜん)には体調(たいちょう)がもどっていませんでした。
続けての出産で、伊周(これちか)・隆家(たかいえ)の兄弟(きょうだい)は定子の身を案(あん)じましたが、安産祈祷(あんざんきとう)の僧侶(そうりょ)を集(あつ)めることもできませんでした。
定子のために働(はたら)いたのは、弟の僧(そう)・隆円(りゅうえん)や叔父(おじ)など、身内(みうち)の僧だけです。
僧たちまで道長の顔色(かおいろ)をうかがったり権力(けんりょく)におもねったりしていたと思うと何のための宗教(しゅうきょう)かと思います。
こころある真(しん)の宗教家(しゅうきょうか)はその時代(じだい)にいなかったのでしょうか。
定子自身(じしん)も、今回(こんかい)の出産には不安(ふあん)を感(かん)じていたのか、いつになく寂(さび)しげな歌(うた)を、気持(きも)ちのむくまま詠(よ)んでいました。

今度の妊娠(にんしん)はつわりがとても重(おも)かったようで、ものが食(た)べられず、彼女はやせ細(ほそ)ってしまいました。
ともすれば涙(なみだ)を浮(う)かべるようになったといいます。どんな時にも笑(え)みを絶(た)やさなかった彼女が・・・。
そうして定子と入れ替わって4月7日、彰子が内裏(だいり)に戻ってきました。
裳(も)を着け髪(かみ)を上げた正装(せいそう)で輿(こし)に乗るさまは、とても華(はな)やかなものでした。
この里退(さとさ)がりの頃の定子と清少納言のやり取りが、枕草子に書かれています。
5月の菖蒲(しょうぶ)の節句(せっく)の時、若い女房たちが薬玉(くすだま)などを作って、脩子内親王(しゅうしないしんのう)や敦康親王(あつやすしんのう)の衣装(いしょう)に付けていた時、清少納言は献上品(けんじょうひん)の中から「青(あお)ざし」というものを見つけて、それを青(あお)い薄様(うすよう)の紙(かみ)にのせ、定子にそっと差(さ)し出します。
定子はその薄様(うすよU)の端(はし)を破(やぶ)ったものに「お前だけはわたしの気持ちを分かってくれているのね」という意味(いみ)の歌(うた)を書きました。
それを見た清少納言はとても感動(かんどう)しています。

「青ざし」というものは、青麦(あおむぎ)で作ったお菓子(かし)のようなもので、少し塩気(しおけ)があったといいますから、吐(は)き気があり、食(しょく)も細(ほそ)くなっていたという彼女にとって、このような清少納言の心遣(こころづか)いはとてもうれしかったのです。

そんな5月の末、道長の病(やまい)のため、彰子は見舞(みま)いのため内裏を退がりました。
道長の回復(かいふく)が遅(おく)れ、帰(かえ)りが延(の)びると、8月8日、一条帝は定子と子どもたちを呼(よ)び寄せ、約(やく)20日間を家族(かぞく)水入(みずい)らずで過ごしました。
定子の妊娠8ヶ月という穢(けが)れをおしてのことでした。
それほどの一条は定子が恋(こい)しかったのです。
それは神様(かみさま)にプレゼントされたような時間(じかん)だったでしょう。
愛する夫(おっと)と子供たちと水入らずで過ごした最後(さいご)の優(やさ)しい時間。
これが最愛(さいあい)の妻(つま)定子との今生(こんじょう)の別(わか)れになると一条は思いもしませんでした。

12月、不吉(ふきつ)なことに月(つき)をはさんで東西(とうざい)にふた筋(すじ)の雲(くも)がかかったといいます。
月は「后(きさき)」を象徴(しょうちょう)します。后に凶事(きょうじ)ありとの見立(みた)てでした。
15日、后の一人である一条帝の母・東三条院詮子の住む東三条院(ひがしさんじょういん)が全焼(ぜんしょう)しました。
そして、もう一人の后である定子は出産(しゅっさん)の苦(くる)しみの中にありました。
伊周(これちか)・隆家(たかいえ)・隆円(りゅうえん)ら身内(みうち)が立ち会う中、15日深夜(しんや)、定子は女御子(おんなみこ)を産みました。
第二皇女(だいにこうじょ)・(女美)子(びし)です。
安産(あんざん)だと思われたのですが、後産(あとざん)がおりませんでした。
薬湯(やくゆ)などをすすめたものの、飲(の)む体力(たいりょく)も残されておらず恐(おそ)ろしい時間(じかん)だけがすぎていきます。

定子の兄・伊周が産所(さんしょ)に詰(つ)めていたのですが、定子の身に異変(いへん)を感じて暗(くら)がりの中、灯(あか)りを顔(かお)に近(ちか)づけ覗(のぞ)きこみます。
その時定子はすでに息絶(いきた)えていました。
驚(おどろ)いた伊周が定子を抱きよせると、もうその体(からだ)は冷(つめ)たくなり始(はじ)めていました。
伊周は愛(あい)する妹の体を抱(だ)いたまま、号泣(ごうきゅう)したといいます。

日付(ひづ)けが変わり、16日未明(みめい)のことでした。
長保2年12月16日、皇后(こうごう)藤原定子崩御(ほうぎょ)。
正歴(しょうりゃく)元(990)年正月(しょうがつ)、11歳の一条帝のもとへ入内して10年ほど。
まだ24歳の若さでした。
波乱(はらん)に満(み)ちた短(みじか)い命(いのち)ですが、本当(ほんとう)の愛を得(え)た幸せな人生(じんせい)だったともいえるでしょう。
定子を失(うしな)った一条天皇の悲嘆(ひたん)は、どれ程(ほど)のものであったでしょう。
定子の葬送(そうそう)は12月27日。鳥辺野(とりべの)に埋葬(まいそう)されます。
雪(ゆき)がハラハラ降(ふ)る寒(さむ)い夜(よる)でした。
定子の遺詠(いえい)となった歌と、一条天皇が定子の葬送の時に詠んだ歌が遺(のこ)されています。


○よもすがら 契(ちぎ)りしことを忘(わす)れずは 恋(こい)ひん涙(なみだ)の色(いろ)ぞゆかしき
(一晩中契(ひちばんじゅうちぎ)りを交(か)わしたことをお忘(わす)れでないのなら、私の死(し)んだ後、あなたが私を恋(こい)しがって流(なが)す涙(なみだ)の色はどのようなものでしょう。それが知りたいのですが、知ることはできないのでしょうね)
一条が必(かなら)ず泣いてくれることを知っていて、その血の色の涙を見たいとうったえている歌です。

○知(し)る人もなき別(わか)れ路(じ)に今はとて 心細(こころぼそ)くも急(いそ)ぎたつかな
(この世と別れ、知る人もいない死の世界(せかい)へ、心細いけれど、急(いそ)いでもう旅立(たびだ)たなくてはなりません)

○煙(けむり)とも 雲(くも)ともならぬ 身なれども 草葉(くさば)の露(つゆ)を それとながめよ
(煙(けむり)にも雲(くも)にもなることができないわが身ですが、草葉(くさば)の露(つゆ)を私と思って眺(なが)めてください)

当時、お産(さん)で亡くなった女性は成仏(じょうぶつ)できないという俗信(ぞくしん)がありました。
定子もそれを知っていて、天(てん)にはあがれず、露に残(のこ)るといったのでしょうか。
露になってもあなたのそばにいたいという意味(いみ)かも知れません。

一条天皇の返歌(へんか)です。
野辺(のべ)までに 心(こころ)ばかりは通(かよ)へども わがみゆきとも知らずやあるらん
(あなたがいる鳥辺野(っとりべの)まで、わたしはついて行くことができない。でも心だけは一緒(いっしょ)にいるよ。あなたの霊屋(たまや)を包(つつ)む深雪(みゆき)は、わたしの行幸(みゆき)の「みゆき」なのだ。だが、あなたはもう、それさえ分からず眠(ねむ)っているのだね)

一条は積(つ)もる「深雪(ふかゆき→みゆき)」に自(みずか)らの「行幸(みゆき)」を掛(か)けました。
雪(ゆき)なら自由(じゆう)に空(そら)を行き、霊屋(たまや)の上に降(お)り立って、彼女をそっと包(つつ)み、別(わか)れを告(つ)げることもできるから。
しかし、現実(げんじつ)の彼は、帝(みかど)だったから、愛(あい)する妻(つま)の死に顔をみることすら、許(ゆる)されなかったのです。


14章 残された子供たち

母・定子が亡くなった時、長女(ちょうじょ)・脩子内親王(しゅうしないしんのう)は数(かぞ)え年5歳、長男(ちょうなん)・敦康親王(あつやすしんのう)2歳、二女(女美)子内親王(びしないしんのう)1歳(数えなので)でした。
現在(げんざい)でいう4歳、1歳、0歳。
こんなおさいない子供(こども)たちを残していくのはさぞ心配(しんぱい)だったでしょう。
定子の妹である御匣殿(みくしげどの)が母替(ははが)わりとなり、3人の皇子・皇女(こうしこうじょ)たちの世話(せわ)をしました。
定子の死後(しご)、一条帝がただ一人心を動(うご)かした女性(じょせい)です。
面影(おもかげ)が似た彼女に、定子と子どもとの幸(しあわ)せな家族(かぞく)の暮(く)らしの幻想(げんそう)を抱(だ)いたのかもしれません。
彼女はやがて懐妊(かいにん)するのですが、赤ちゃんを産むことなく亡くなってしまいます。
享年(じゅくねん)わずか17歳でした。

その直後(ちょくご)。
定子の妹でのちの三条帝の女御だった原子(もとこ)も亡くなっています。
突然血を吐いて亡くなったことから毒殺(どくさつ)されたのではないかと噂(うわさ)されました。
その後皇子の敦康親王(あつやすしんのう)は、彰子が皇子を生めなかった場合(ばあい)のスペアとして、彰子の養子(ようし)とされます。
道長としたら彰子が万(まん)が一皇子を生まなかった場合、実子(じっし)の代わりにして自(みずか)らが権力(けんりょく)を握(にぎ)る身代(みのしろ)にするつもりだったのでしょう。
他(ほか)の女御たちに皇子が生まれても身分上(みぶんじょう)怖(おそ)れることはありませんし、定子の兄弟である伊周・隆家らの手から遠(とお)ざけることで、彼らの勢力(せいりょく)が盛(も)り返すことも防(ふせ)ぐことになります。
しかし父親の思わくはわれ関(かん)せず、彰子は愛情(あいじょう)を持って敦康を育(そだ)て、その後生まれた自身(じしん)の子どもをさしおいても東宮(とうぐう)にすべきと主張(しゅちょう)したのですが、道長の反対(はんたい)によって実現(じつげん)しませんでした。

寛弘(かんこう)2(1005)年3月、脩子内親王(しゅうしないしんのう)は10歳で内裏(だいり)にて、裳着(もぎ)(今でいう女性の成人式(せいじんしき))の式を行いました。
一条帝は彼女を三品(さんぼん:親王(しんのう)の位階(いかい)の第三位)に叙(じょ)します。

翌年(よくねん)には二品(にほん)に、またさらに翌年には一品(いっぽん)に叙(じょ)すと同時(どうじ)に、准三宮(じゅさんぐう)の待遇(たいぐう)を与(あた)えました。
*准三宮(さんぐう)とは (太皇太后(たいこうたいごう)、皇太后(こうたいごう)、皇后(こうごう)) に准(じゅん)じた待遇(たいぐう)を、皇族(こうぞく)や臣下(しんか)に与(あた)えることです。

一条帝は彼女を非常(ひじょう)にかわいがっていたといいますから、世の人から軽(かろ)んぜられることのないように、との処置(しょち)だったのかもしれません
自分が亡きあとのことも考えたのでしょう。
定子の兄と弟の、伊周と隆家は、長徳(ちょうとく)の変(へん)の罪(つみ)を許(ゆる)されて帰京(ききょう)したのち、徐々(じょじょ)に地位(ちい)を戻されました。
兄弟の復位(ふくい)は、病床(びょうしょう)にあった一条帝の母・東三条院詮子の最期(さいご)の望(のぞ)みでした。
さすがに不憫(ふびん)になったのでしょう。

追放(ついほう)から10年後。
やっと昇殿(しょうでん)が許(ゆる)されるまで地位(ちい)が上がります。
4月24日には極秘(ごくひ)に参内して一条帝とも会見(かいけん)もし、11月13日には朝議(ちょうぎ)(朝廷(ちょうてい)の会議(かいぎ))に参加(さんか)しました。
寛弘(かんこう)4(1007)年1月20日には隆家も従二位(じゅうにい)に叙せられました。
寛弘5(1008)年)彰子に第二皇子・敦成(あつひら)親王が生まれると、道長の敦康親王(あつやすしんのう)に対する態度(たいど)は手のひらを反すように冷(つめ)たいものに変わりました。
また、定子が命(いのち)と引き換(か)えに生んだ(女美)子(びし)内親王も、詮子(せんし)の許(もと)に引き取られてかわいがられていたのですが、成人(せいじん)することなく、1008年5月に夭折(ようせつ)しています。
まだ9歳という幼(おさな)さでした。
「栄華物語(えいがものがたり)」には、一条帝が悲嘆(ひたん)にくれたと記(しる)してあります。
脩子内親王が亡き妹宮(いもうとみや)を恋(こい)しがるようすなども。

寛弘7(1010)年1月29日、定子の兄伊周が亡くなりました。
彰子が皇子を生み最期(さいご)の望(のぞ)みがついえて悲嘆(ひたん)したからだとも言います。
最後まで心弱い人でした。
政治的(せいじてき)には何の力も持つことはできなかったものの、
正二位・准大臣(じゅんだいじん)にまで復(ふく)していたこの伯父(おじ)の死によって、脩子内親王と敦康親王の後見(こうけん)はより心細(こころぼそ)いものとなりました。

同年7月17日、敦康親王は12歳で元服(げんぷく)(今でいう男性の成人式(せいじんしき))します。
加冠役(かかんやく)は道長が務(つと)めました。
加冠役を務めるというのは、後々(あとあと)後見役(こうけんやく)となることでもありますが、道長の敦康親王(あつやすしんのう)への奉仕(ほうし)は決して行き届(とど)いたものではなかったようです。
一条帝は敦康親王にを三品(さんぴん)に叙(じょ)し、大宰帥(だざいのそつ)に任(にん)じました。
翌年(よくねん)には脩子内親王と同じく、一品(いっぴん)に叙し、准三宮(じゅさんぐう)の待遇(たいぐう)を与えました。


15章 一条天皇の死

寛弘8(1011)年5月23日、もともと、体(からだ)があまり丈夫(じょうぶ)では無かった一条帝は発病(はつびょう)しました。
当然、そこには後継者問題(こうけいしゃもんだい)が生じる事になるのですが、次期天皇(じきてんのう)としては、すでに一条天皇が即位(そくい)した時に、一条天皇の叔父(おじ)で第63代の冷泉(れいぜい)天皇の皇子=居貞(おきさだ)親王(しんのう)が皇太子(こうたいし)になっていました。
焦点(しょうてん)は、その居貞親王(おきさだ)が即位(そくい)する時に立てねばならない皇太子(こうたいし)・・・。
定子との間に生まれた敦康親王(あつやすしんのう)以外(いがい)に、一条天皇には彰子との間に敦成(あつひら)親王をもうけています。
一条の本音(ほんね)では定子の忘(わす)れ形見(がたみ)敦康親王を皇太子にしたいわけですが・・・。
この時の敦康親王には守(まも)ってくれる外戚(がいせき)も母もいない状態(じょうたい)・・・。

一方(いっぽう)敦成親王(あつひら)には道長が付いています。
たとえ強引(ごういん)に天皇の独断(どくだん)で敦康親王(あつやすしんのう)を東宮(とうぐう)にしても、自分の亡きあと、道長に蹴落(けお)とされることは目に見えています。
もう、答(こた)えは決まっていました。
この約10日後の寛弘8(1011)年6月13日、一条帝は譲位(じょうい)し、わずか4歳の敦成親王が東宮に立ちました。
后腹(きさきばら)の第一皇子(だいいちこうし)が立太子(りったいし)できなかったのは異例(いれい)のことで、世の人々も密(ひそ)かにこの不運(ふうん)の皇子に同情(どうじょう)を寄せたといいます。

その悲しみのまま病(やまい)は悪化(あっか)し、6月19日、一条天皇は出家(しゅっけ)します。
次の日からは危篤状態(きとくじょうたい)が続(つづ)きました。。
21日夜、、目覚(めざ)めた一条は最後(さいご)の歌を詠(よ)みました。

「露(つゆ)の身(み)の草(くさ)の宿(やど)りに君(きみ)を置(お)きて 塵(ちり)を出(い)でぬることぞ悲(かな)しき」
(露(つゆ)のようにはかない身の、風にさらされ吹き散(ち)らされ そうなこの無常(むじょう)の世、そのような俗人(ぞくせ)の宿世(すくせ)にあなたを 置(お)き去(ざ)りにして、わたしは俗界(ぞくかい)を離(はな)れてしまった。そのことがたまらなく悲(かな)しい)

忠臣(ちゅうしん)の行成(ゆきなり)はこの歌を、枕元(まくらもと)で看病(かんびょう)していた。
彰子にではなく「定子に寄(よ)せたものだ」と日記(にっき)に書き残(のこ)しました。

この歌は11年を隔(へだ)てて詠まれた、「煙(けむり)とも雲(くも)ともならぬ身なりとも 草葉(くさば)の露(つゆ)をそれと眺(なが)めよ」と詠(うた)った定子の歌への返歌(へんか)だと言ったのです。
歌の中で定子は自(みずか)らを「草葉(くさば)におりた露(つゆ)」と言っていました。
だからこそ一条の歌の「君(きみ)」とは定子だろうと。
一条院の歌は、「君(きみ)」を俗世(ぞくせ)に置いたまま出家(しゅっけ)する悲(かな)しさを詠んでいます。
なぜなら、十一年前に亡くなり、現世(げんせ)の「草(くさ)の宿(やど)り」に「露(つゆ)の身」となってとどまっている彼女(かのじょ)を置いていくことになるからです。
一度は出家(しゅっけ)したのを引き戻(もど)したのは、他(ほか)ならぬ一条でした。
この頃(ころ)、産褥死(さんじゅくし)の女性の魂(たましい)は成仏(じょうぶつ)できないと言われていました。
ですから、一条の中で、定子は露(つゆ)となり、今もこの世にいるはずなのです。
なのに、それを置(お)いて、一条自身(じしん)は当時の信仰(しんこう)に従(したが)い、後生(こうせ)で成仏(じょうぶつ)できるように出家(しゅっけ)をしてしまいました。
だから、悲(かな)しい。

これが最後(さいご)の言葉(ことば)となり、22日正午頃(しょうごごろ)、崩御(ほうぎょ)しました。
享年(じゅくねん)32歳でした
その在位(ざいい)は25年に及(およ)びました


16章 その後の人々

やがて、その5年後、三条天皇(さんじょうてんのう)は、皇太子(こうたいし)の敦成(あつひら)親王に譲位(じょうい)・・・。
道長に苛(いじ)め抜(ぬ)かれた上の譲位でした。
これが、第68代後一条天皇(ごいちじょうてんのう)で、この時、自らの孫(まご)を天皇にした道長は有名(ゆうめい)な歌。

この世をば わが世とぞ思う 望月(もちづき)の欠(か)けたることの なしと思えば

という、勝利(しょうり)の歌を詠みます。
その後の定子の三人の子どもたち、家族(かぞく)です。
一条帝の死後(しご)、脩子内親王(しゅうしないしんのう)は宮中(きゅうちゅう)を出ます。
一旦(いったん)、叔父(おじ)の隆家(たかいえ)の邸(やしき)へ移(うつ)り、長和2(1013)年1月27日、三条宮(さんじょうのみや)に移りました。

同年12月10日、敦康親王(あつやすしんのう)も故中務卿(なかつかさきょう)具平(ともひら)親王の二女と結婚(けっこん)します。
この時、道長は敦康親王に新居(しんきょ)を贈(おく)っています。
若(わか)い夫婦(ふうふ)の仲(なか)はたいへん睦(むつ)まじかったようです。
やがて長和5(1016)年7月19日、娘(むすめ)が生まれました。
しかしその2年後の寛仁(かんにん)2(1018)年12月15日、敦康親王は突然(とつぜん)発病(はつびょう)、
17日の夜明(よあ)け頃に出家(しゅっけ)すると、午後2時頃には息(いき)を引き取ってしまいました。
まだ20歳の若さでした。

一人娘(ひとりむすめ)は長元(ちょうげん)10(1037)年1月に後朱雀帝(ごすざくてい)。
(彰子の産んだ一条帝の第三皇子(だいさんこうし))のもとへ女御(にょうご)として入内。
同年3月、中宮に立ち、後朱雀帝の寵愛(ちょうあい)を受け、祐子(ゆうし)内親王・媒子(ばいし)内親王をもうけたのですが、定子と同じ24歳で出産(しゅっさん)で亡くなりました。

ひとり残された脩子は、彰子やその後即位(そくい)した後一条帝(敦成親王(あつひらしんのう))から度々(たびたび)「内裏(だいり)にお移りになられては」と勧(すす)められたようですが、内裏に戻(もど)ることはなかったようです。
終生独身(しゅうせいどくしん)で過(す)ごし、伊周(これちか)の娘の子延子(のぶこ・またはえんし)を養女(ようじょ)として育(そだ)てたといいます
「栄花物語(えいがものがたり)」によれば、脩子(しゅうし)は書(しょ)に長(ちょう)じ、そばには琴(こと)や琵琶(びわ)を見事(みごと)に弾(ひ)く人が多く仕(したが)えていたため、延子も琴に優(すぐ)れていたといいます。
29歳で落飾(らくしょく)、入道一品宮(にゅうどうのいっぽんのみや)などと称(しょう)され、永承4(1049)年、54歳でひっそりと世を去りました。

異母弟(いぼてい)たち、敦成親王(後一条帝)、敦良(あつなが)親王(後朱雀帝)は、彼女(かのじょ)を決(け)して軽(かろ)んじることはなく、尊敬(そんけい)し大切(たいせつ)にしたようです。


17章 同じ時代に愛に生きたもう一人の女御

「素腹(すばら)の女御(にょうご)」とさげすまれた女御、元子(もとこ)のその後です。
一条帝が崩御(ほうぎょ)したとき、元子は33歳でした。
亡くなった先帝(あま)の女御の1人として、尼(あま)になるなどしてひっそりと過ごしていくのが普通(ふつう)の女御の行く道でした。
元子自身(じしん)もそう思っていたかもしれません。

ところが、運命(うんめい)の出会(であ)いをします。
彼女の前に1人の男性(だんせい)が現(あらわ)れたのです。

彼の名は、源頼定(みなもとのよりさだ)。
元子より2歳年上でした。
許(ゆる)されぬ恋(こい)ゆえに二人の愛はつのるばかり。
それを知った父の顕光(あきみつ)は激怒(げきど)し、元子の髪(かみ)をむりやり切ってしまいます。
そのまま尼にしようとしますが、元子は家(いえ)を出て、恋人(こいびと)のもとへ家出(いえで)してしまいます。
やがて2人の間(あいだ)には女の子が2人生まれたといいます。
やがて顕光にも許されて実家(じっか)に戻ったようですが、彼女の没年(ぼつねん)は分かっていません。
頼定は元子と出会ってからは彼女ひとりを愛(あい)し続けたといいますから、晩年は心穏やかなものだったでしょう。


18章 彰子

定子の妹の死後(しご)、敦康親王の面倒(めんどう)を見ることになった彰子。
頭(あたま)のいい控(ひか)えめな女性だったようで、一条天皇をはさんだ定子の敵役(かたきやく)のような立場(たちば)でありながら、彼女のことを悪(わる)く言う人はほとんどいません。
彰子は敦康親王(あつやすしんのう)のことをとても大切(たいせつ)にし我(わ)が子のように愛(あい)していたといいます。

しかし1008年、彰子が一条天皇の第2皇子、敦成(あつなり)親王を出産(しゅっさん)したことで事態(じたい)は急変(きゅうへん)します。
当然、藤原道長は敦成親王を将来(しょうらい)の天皇にしたいと考えます。
一方の一条天皇は、愛していた定子の子、敦康親王を天皇にしたいと考(かんが)えました。
そして、中宮(ちゅうぐう)である彰子も一条天皇の気持ちを汲(く)み、敦康親王を天皇として推(お)したと言われています。
彰子の心境(しんきょう)は複雑(ふくざつ)だったと思いますが、夫の一条天皇の気持ちを優先(ゆうせん)しました。
しかしその願(ねが)いはかないませんでした。
この頃彰子は道長を憎(にく)んで嫌(きら)っていたと言います。

一条が亡くなる時ずっと側にいたのは彰子ですが、夫が最後(さいご)まで愛していたのは定子でした。
彰子の心(こころ)はいかばかりだったか・・。

三条帝が譲位(じょうい)し、 長和5年(1016年)正月29日には敦成親王が即位し(後一条天皇)、道長は念願(ねんがん)の摂政(せっしょう)に就任(しゅうにん)。
彰子も帝の母后(ぼこう)としての立場(たちば)を確立(かくりつ)させていきます。

翌年、道長は摂政・氏長者(うじのちょうじゃ)をともに嫡子(ちょくし)・頼通(よりみち)にゆずり、出家(しゅっけ)して政界(せいかい)から身を引きました。
道長の出家後、彰子は指導力(しどうりょく)に乏(とぼ)しい弟たちに変わって一門(いちもん)を統率(とうそつ)し、頼通らと協力(きょうりょく)して摂関政治(せっかんせいじ)を支(ささ)えました。
しかしこの後、藤原摂関家一族(ふじわらせっかんけいちぞく)の姫(ひめ)は、入内すれども男児(だんじ)には恵(めぐ)まれませんでした。
万寿(まんじゅ)3年(1026年)正月19日、落飾(らくしょく)しました。
同日、一条天皇母后(いちじょうてんのうぼこう)で、彼女にとっては伯母(おば)で、義母(ぎぼ)でもあった東三条院詮子(ひがしさんじょういん)の先例(せんれい)にならって女院号(にょいんごう)を賜(たわま)り、上東門院(じょうとうもんいん)と名乗(なの)ります。

長元(ちょうげん)9年(1036年)4月17日に後一条天皇(ごいちじょうてんのう)、寛徳(かんとく)2年(1045年)正月18日に後朱雀天皇(ごすざくてんのう)が崩御(ほうぎょ)し、十年の間(あいだ)に二人の子を失(うしな)ってしまいます。
その後は孫(まご)の後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)が即位(そくい)。
しかし後見(こうけん)をしていた後冷泉天皇にも、もう一人の孫、後三条天皇(ごさんじょうてんのう)にも、先立(さきだ)たれます。
曾孫(ひまご)・白河天皇(しらかわてんのう)の代(だい)、承保(じょうほ、じょうほう)元年(1074年)10月3日、法成寺阿弥陀堂内(ほうじょうじあみだどうない)で、87歳で永眠(えいみん)しました。
若くして亡くなったけれど強(つよ)く深(ふか)く愛された定子と生活(せいかつ)の不安(ふあん)もなく長生(ながい)きして子供や孫が出世(しゅっせ)した彰子のどちらが幸(しあわ)せだったか。
短(みじか)くても愛される人生がいいと思ってしまいますが、それでも、定子も彰子もどちらも自分に与(あた)えられた運命(うんめい)を生ききった強(つよ)い女性(じょせい)だったと思うのです。




クイズ

清少納言が定子に「こんな騒々(そうぞう)しい世(よ)の中になってしまって、もうどこへでもいいから行ってしまいたいと思うような時でも、上等(じょうとう)の筆(ふで)や○○などを手に入れると、それで気持(きも)ちがすっきりしてしまうんです」と言いました。
○○とは?

1、真っ白い紙

2、正露丸

3、甘いおやつ




答え1

のちに定子は引きこもっていた清少納言に真っ白な紙を送り、その紙に「枕草子」は書かれることになります。

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