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        2年生の日本民話(にほんみんわ) 
          
          
         
黄門(こうもん)さまのイジワル 
茨城県(いばらきけん)の民話(みんわ) 
      
      「ひかえおろう。この紋所(もんどころ)が、目に入らぬか」 
  と、身分(みぶん)をかくして日本中を巡(めぐ)り歩(ある)き、悪人(あくにん)をこらしめる水戸黄門(みとこうもん)は、テレビなどでとても有名(ゆうめい)です。 
   でも実際(じっさい)の黄門(こうもん)さまは、学問(がくもん)をつづけながらひっそりとくらし、1700年13年12月6日、72歳(72さい)で静(しず)かに世(よ)を去(さ)ったそうです。 
   その黄門(こうもん)さまは子どものころ、たいへんな悪(わる)ガキで、いつも友(とも)だちと遊(あそ)んでばかりいました。 
   ある時(とき)、父親(ちちおや)の殿(との)さまが、黄門(こうもん)さまにたずねました。、 
  「もし戦場(いくさば)で、わしがふかい傷(きず)を負(お)って倒(たお)れたら、お前(まえ)はわしを助(たす)けるか?」 
   すると、黄門(こうもん)さまは、 
  「いいえ。助(たす)けません」 
  と、きっぱりいいました。 
  「なんだと! なぜ、父(ちち)を助(たす)けぬのだ!」 
  と、ききかえされて、 
  「わたくしは、倒(たお)れた父上(ちちうえ)をのりこえて、敵(てき)と戦(たたか)います」 
  と、答(こた)えたので、殿(との)さまは、とても感心(かんしん)したそうです。 
   さて、黄門(こうもん)さまには、三木武太夫(みきたけだゆう)という、おそばにつかえる者(もの)がいました。 
   武太夫(たけだゆう)は子どものときから、『カミナリ』と『アズキがゆ』が大きらいで、それは大人になってもかわりませんでした。 
   ある時(とき)、黄門(こうもん)さまは武太夫(たけだゆう)を呼(よ)んでたずねました。 
  「その方(ほう)の好物(こうぶつ)は、なんであったか?」 
  「はい。カミナリとアズキがゆが、大好物(だいこうぶつ)であります」 
   武太夫(たけだゆう)は、見栄(みえ)をはって、そうこたえました。 
  「そうか。カミナリは出せぬが、アズキがゆならすぐにできよう」 
   黄門(こうもん)さまは、アズキがゆをつくらせて、持(も)ってこさせました。 
  「さあ、食(た)べてよいぞ。・・・どうした? 好物(こうぶつ)であろう?」 
  「はい、・・・」 
  「食(た)べぬのか? それとも、アズキがゆは、きらいか?」 
  「いえ、その・・・」 
   武太夫(たけだゆう)は決心(けっしん)すると、目をつぶり、のみこむようにして食(た)べました。 
   それからしばらくたって、黄門(こうもん)さまにお客(きゃく)がきたときのことです。 
   空がきゅうに暗(くら)くなり、カミナリが鳴(な)りだしました。 
   黄門(こうもん)さまは、しめたとばかりに言(い)いました。 
  「お客人(きゃくじん)よ。実(じつ)はな、ここにはカミナリの大好(だいす)きな者(もの)がおりまして、あれが鳴(な)ると、大喜(おおよろこ)びするのです」 
  と、お客(きゃく)にそういって、武太夫(たけだゆう)を呼(よ)びよせ、 
  「ほれ、大好物(だいこうぶつ)のカミナリが鳴(な)っておるぞ。うれしいだろう。すまぬが、投網(とあみ)をうって、池(いけ)の魚(さかな)をとってまいれ」 
  「はい、その、それは・・・」 
  「なにをしておる。カミナリはきらいか?」 
  「いえ、その・・・」 
   武太夫(たけだゆう)は決心(けっしん)すると、雷鳴(らいめい)のとどろく中、池(いけ)にいって魚(さかな)をとってきました。 
   それからも、このような事(こと)がなんどもあり、武太夫(たけだゆう)はカミナリとアズキがゆぎらいを克服(こくふく)していったのです。 
   それからのち、黄門(こうもん)さまが亡(な)くなってから、武太夫(たけだゆう)は、 
  「どんなにきらいな物(もの)でも、努力(どりょく)でなおせるものだ。それを黄門(こうもん)さまから教(おし)えられた」 
  と、黄門(こうもん)さまの行動(こうどう)(イジワル?)を、とても感謝(かんしゃ)したという事(こと)です。 
      おしまい 
        
       
         
         
        
      
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