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百物語 第五十六話
キンモクセイの妖怪
むかしむかし、ある町に、ひとりのさむらいが住んでいました。
ある日、さむらいの屋敷に知りあいの老人がたずねてきました。
その夜は月も大きく、二人は障子(しょうじ)をあけて、月をながめながら酒をくみかわしました。
ときどき、キンモクセイの花の甘い香りが、風にのって流れてきます。
「なんていい香りだ」
そういって、老人が庭の方をながめたときです。
大きなキンモクセイの木のそばに、白い着物を着た若い女が立っていたのです。
青白い顔に長い髪をふり乱して、ジッとこちらを見ています。
(おかしいな。少し酔っぱらったかな)
老人が、目をこすって立ちあがろうとしたとき。
その女が、いきなり風のように飛んできて、老人の前にぬうっと顔を出しました。
「うひゃ!」
老人は思わず身をのけぞりましたが、さむらいは、いっこうにおどろきもせず、
「客人の前で失礼な! さっさと消えないと、たたき切るぞ!」
と、いいました。
そのとたん、女はスーッとはなれ、キンモクセイの木のかげに消えました。
「やれやれ」
老人はホッと胸をなでおろすと、さむらいにたずねました。
「あれはなに者です?」
「さあ、なに者でしょう? 夜になると、いつもああやって出てきます」
「失礼だが、こわくありませんか?」
「べつになんともありません。気にしないで、どんどんやってください」
さむらいは、老人のさかずきに新しい酒をつぎました。
ところが、しばらくするとまた女が出てきて、今度は縁側の前を行ったり来たりするようになりました。
歩くでもなく、すべるでもなく、フラフラと動きまわるのです。
老人は、もう酒を飲むどころではなく、ブルブルとふるえながら女を見ていました。
女はきゅうに立ちどまると、老人の前に顔をつき出し、ニヤリと笑いました。
背筋がゾーッとして、老人は思わず息を飲み込みます。
「消えろというのに、まだわからんのか!」
さむらいは、いきなり刀を抜くと、女に切りつけましたが、女はフワリと身をかわすと、ゆっくりと逃げていきます。
「待て!」
さむらいははだしのまま庭へとびおり、女を追いかけました。
女は、「早くおいで」といわんばかりに、ときどきうしろをふり返り、キンモクセイの木のかげに消えました。
さむらいは、しばらく女の消えたあたりをさがしていましたが、ガッカリした顔でもどってきました。
「とうとう見失いました。まったく、しようのないやつで」
「いくらなんでも、殺すのはかわいそうですよ」
「とんでもない。あれは化けものですよ。戸があいていれば部屋の中にも来るし、布団の上にもあがってきます」
「なんと! さっきも聞いたか、おまえさんはこわくないのですか?」
「そりゃ、はじめはこわかったですよ。でも、べつに悪さをするわけでもないし、もう、なれっこになりました。刀で切りつけても手ごたえはないし、追えば風のように逃げだすし」
それを聞いて、老人はここにいるのがこわくなり、酒のお礼をいってすぐに屋敷を出ました。
月はあいかわらず、頭の上でかがやいています。
ふと顔をあげると、塀(へい)の上までキンモクセイの木がのびていて、その花のにおいが流れてきます。
その時、ポキッという、枝を折(お)るような音がしました。
老人が、塀の破れめからこわごわ中をのぞいてみると、さっきの女が木にのぼって、さかんに枝を折っています。
老人と目があったとたん、女はまたもニヤリと笑いました。
老人はもう、あとも見ずにかけだしました。
ふしぎなことに、女はその日から毎晩、キンモクセイの枝を折るようになりました。
さむらいが気にもとめないでいたら、とうとう全部の枝を折ってしまい、木を枯れさせてしまいました。
同時に、女はもう二度と姿を現すことがありませんでした。
それからまもなく、さむらいが死んだという知らせがありました。
老人がかけつけたとき、キンモクセイの木も花もないのに、あの甘ずっぱいにおいが屋敷じゅうにたちこめていたそうです。
おしまい
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