2012年 11月2日の新作昔話
比良の八荒
滋賀県の民話
琵琶湖(びわこ)のあたりでは、比良(ひら)の山から強い風が吹いてきます。
この風を『比良八荒(ひらはっこう)』と呼ぶのだそうですが、これは、その比良八荒にまつわる、悲しいお話です。
むかしむかし、琵琶湖に近い比良の山で、たくさんのお坊さんが修行をしていました。
ある日の事、一人の若い坊さんが病気になったのですが、そのお坊さんは修行が大事だからと、無理をして湖の対岸の村々で托鉢(たくはつ)をしていたのですが、木の浜の村と言うところに来たとき、とうとう意識を失って倒れてしまいました。
そこへ、ちょうど通りかかった村娘のお光が、倒れているお坊さんを見つけて自分の家に運び込んだのです。
お坊さんの高熱は何日も続きましたが、お光の手厚い看病のおかげで、日に日に良くなっていきました。
そしてそのうち、お光と坊さんの間に、あわい恋心がわいてきたのです。
そして、歩けるまでに回復したお坊さんが、お光に言いました。
「長い間、ごやっかいになりました。おかげで病もすっかり良くなりましたので、これから比良の寺に戻ります。あなたに受けたこのご恩は、決して忘れません」
その坊さんの言葉に、お光の目から涙があふれました。
「嫌です。このまま、お別れしたくはありません」
お坊さんの本心も、お光と同じでした。
修行をとるか、恋をとるか、迷いに迷った坊さんは、しばらくして言いました。
「これからわたしは比良に帰って、堅田(かただ)の満月寺にこもって百日の修行をいたします。その百日の間、湖を渡って毎夜、わたしのもとへ通い続ける事が出来たなら、わたしはあなたと夫婦(めおと)になりましょう」
「はい。わかりました。必ず百日の間、通い続けます」
こうしてお光は、毎夜、タライ舟をこいで湖を渡ったのです。
月の明るい夜はまだいいのですが、月の無い夜の湖はとても暗く、浮見(うきみ)堂の灯りだけが頼りでした。
お光はがんばって満月寺にたどり着くと、修行を続ける坊さんの後ろ姿をそっと拝んで、また暗い湖を帰って行くのでした。
お光りは、雨の日も、風の日も、雪の日も、毎晩タライ舟をこいでやってきました。
それを初めはうれしく思っていたお坊さんも、そのうちに、だんだんと恐ろしくなってきたのです。
この暗い湖をたった一人でタライ舟をこいで、毎日欠かさず通ってくるのは、とても大変な事です。
修行を続けるお坊さんでも、簡単には出来ないでしょう。
それをかよわい、若い女がやり続けるのです。
お坊さんは、お光りに鬼が取り憑いているのではないかと思い始めました。
そしてとうとう、百日目がやってきました。
正直、今までお光は湖に落ちて、命を落としかけた事もあります。
でもお光は、ついにやり遂げたのです。
「今日が、約束の百日目! あともう少しで、あの人のお嫁さんになれるのだわ!」
一方、お坊さんは、
「今日で百日目か。やはりあの女、人ではない。鬼だ」
と、思い、お坊さんは目印の浮見堂の灯りを消してしまったのです。
急に灯りが消えたので、あたりは真っ暗になりました。
もう、どこへ向かって舟をこいでいいのかわかりません。
「どうしよう。・・・いいえ、大丈夫。あの人は、きっと助けに来てくれるはず」
お光は、お坊さんが再び灯りをつけて、自分を迎えに来てくれると信じていましたが、お坊さんは灯りをつけようとはしません。
そのうちに強い風が吹いてきて、お光の乗る小さなタライ舟は、湖に飲み込まれてしまいました。
「お坊さま――!」
お光は最後に一声さけぶと、そのまま湖底へと沈んでしまったのです。
それは、もうすぐ春がくる、三月の末の事でした。
それからというもの、毎年、三月の下旬になると、比良の山から風が吹き、湖が荒れるようになったのです。
悲しい出来事を知った人々は、お光の怨みで風が吹くのだと言い伝えたそうです。
おしまい