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第99話

カモシカになった弓の名人

カモシカになった弓の名人
スイスの昔話スイスの情報

♪音声配信(html5)
朗読者 : ぬけさくのいちねん草紙

 むかしむかし、ある村に、弓の名人と言われる男がいました。
 男は狙って獲物を、一度も逃がした事がないのが自慢です。

 ある日の事、男は山奥で一頭のメスのカモシカを見つけました。
 男に見つかったカモシカは、必死で逃げました。
 でも、逃げ道を間違えたカモシカは、崖の手前で動けなくなりました。
「クワーン」
 悲しそうに鳴くカモシカを見て、男はにやりと笑いました。
(手こずらせたが、これで最後だ。苦しまない様に、一発で仕留めてやるからな)
 ところが弓を引きしぼった男は、自分の目を疑いました。
 いつ現れたのか、老人がカモシカのそばに座っていたのです。
「誰かは知らないが、危ないからどいてくれ」
 すると老人は、男に言いました。
「わしは、山の精じゃ。お前はなぜ、動物を苦しめて喜んでいる?」
 男は、答えました。
「いいえ、決して喜んではおりません。これは、生きていく為でございます。牛も馬も持っていないわたくしは、鳥やカモシカを撃たねば食べていけないのです」
 すると老人は小さな木のうつわを取り出すと、その中へカモシカの乳をしぼり始めました。
 そしてしぼり終わると、老人は木のうつわを男に渡して言いました。
「さあ、これが今日からの食べ物じゃ」
 うつわの中で乳は、チーズの様に固まっていました。
「この食べ物は、ほんの少しでもうつわに残っていれば、次の食事までには元の量に戻っている。これをやるから、もう二度と山の生き物を殺さない様、約束してくれないか?」
「はい。それが本当なら、二度と弓矢は使いません」
 男はそう言うと、自分の小屋へ帰ってチーズを一口食べてみました。
「こいつは、うまい!」
 あまりのおいしさに、男はもう少しで全部食べてしまうところでした。
 でも老人の言葉を思い出して、ほんのちょっぴり残しておきました。

 次の朝、チーズは元通り、うつわいっぱいになっていました。
 こうして食べる事に困らなくなった男は、山の精との約束通り弓を取ろうとはしませんでした。
 弓の名人が狩りを止めたので、動物たちは平和に暮らす事が出来ました。
 やがて、一年が過ぎました。
 男はふと、ほこりだらけの弓に気がつきました。
 男はほこりをはらいながら、弓のうなる音を思い出しました。
 それから、逃げる動物たちの悲鳴を。
「ああ、腕がなる。久しぶりに、この弓を使ってみたいものだ」
 ちょうどその時、カモシカの声が聞こえました。
 見ると、窓の外に一頭のカモシカが立っています。
「しめた!」
 男はすぐ弓矢を持って、飛び出しました。
 矢に狙われても、男が狩りを止めたと信じているカモシカは、逃げ様とはしません。
「馬鹿め」
 男は素晴らしい獲物を前にして、山の精との約束を忘れていたのです。
 男は力一杯に、弓を引きしぼりました。
 ビュン!
 あわれなカモシカは、男の弓にバッタリと倒れました。
 カモシカの肉は、男の夕食になりました。
「いつものチーズは、食後のデザートにしよう」
 男がそう思って、戸棚を開けると。
「あっ!」
 中から黒ネコが、飛び出して来ました。
 口に、あのうつわをくわえています。
 黒ネコは人間そっくりの目と手をした、気味の悪いネコでした。
「待てっ!」
 男がどなると、ネコは窓から逃げてしまいました。
「まあいいさ。チーズを取られても、おれが狩りを始めればいいだけだ」
 それから男は、また毎日の様に弓矢を持って鳥やカモシカを追い回す様になりました。
 山の平和は、こうして終わりました。

 ある日男は獲物を追いながら、以前に山の精と出会った崖に来ていました。
 不思議な事に、そこにはあの時のメスのカモシカがいるではありませんか。
「あの時は邪魔が入ったが、今日こそ仕留めてやる」
 男はカモシカ目掛けて、矢をはなちました。
 ビュン!
 カモシカは悲しい叫び声をあげながら、谷底深くに落ちて行きました。
「やったぞ!」
 喜びながら谷底をのぞいた男は、その場で凍り付いてしまいました。
 何と谷底の下ではカモシカの代わりに、あの山の精が立っていたのです。
 山の精は、じっと男を見つめていました。
(いや、おれが悪いんじゃない。ネコにチーズを取られてしまったから、それで仕方なく狩りを)
 男は言い訳をしようとして、自分の声にビックリしました。
 その声は人間の声でなく、カモシカの声だったのです。
 いいえ、声だけではありません。
 男はいつの間にか、カモシカになっていたのです。
 カモシカになってしまった男に、山の精は悲しそうに言いました。
「約束を破らなければ、ずっと人間として幸せに暮らせたものを」
 約束を破った弓の名人は、それからはカモシカとして暮らすしかありませんでした。

おしまい

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