大岡越前守
本名 大岡忠相(おおおかただすけ 1677〜1751)で、江戸中期の政治家です。
一般に大岡越前守(えちぜんのかみ)とよばれることが多いので、「きょうの日本昔話」では、大岡越前守と記載しています。
譜代の旗本大岡忠高の4男として生れ、1686年(貞享3に、)大岡忠真(おおおかただざね)の養子(ようし)となり、養父から1920石を相続しています。
1702年に書院番(しょいんばん→警備の仕事)となって以来、徒頭(かちがしら)、使番(つかいばん)、目付(めつけ)と順調に昇進し、1712年(正徳2)山田奉行に就任すると同時に能登守(のとのかみ)となりました。
1716年(享保元)普請奉行に転任し、8代将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)のもと、41歳で江戸の町奉行に昇進し、名前を越前守(えちぜんのかみ)とあらためました。
以後、約20年間同職をつとめています。
自分や幕府の事しか考えない政治家が多い中、彼はたいへん江戸市民の生活をまもるために力をそそいだ人物で、主な業績を挙げてみると、
当時たいへん力を持っていた両替商(りょうがえしょう→銀行のようなもの)を敵にまわしても、やすい商品を江戸に流通させようとしたり、
問屋(とんや)→仲買(なかがい)→小売(こうり)という物流の組織を確立し、スムーズな流通機構をつくりあげたほか、
町火消「いろは四十七組」を組織し、避難用地をふやすなど防災策をほどこし、貧窮者の救済のため小石川養生所を設立しました。
将軍である吉宗の反対をおして、米価安定のために実施された元文期(1736〜41)の貨幣改鋳(かいちゅう)も彼の功績です。
こうした業績が、大岡裁きで有名な「大岡政談」を生みますが、話や登場人物のほとんどが、架空とされています。