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福娘童話集 > きょうの日本民話 > 9月の日本民話 > 石子づめになった子 
      9月3日の日本民話 
          
          
         
  石子づめになった子 
  奈良県の民話 → 奈良県情報 
   
  ・日本語 ・日本語&中国語       
      
       
      
      
       むかしから奈良のシカは春日大社(かすがたいしゃ)の神さまのお使いだといって、とても大切にされてきました。 
         
   むかしむかし、この大社のすぐ西の興福寺(こうふくじ)という寺のわきに、寺子屋(てらこや)が一つありました。 
   ある日の事、子どもたちが手ならいをしていたとき、シカが一頭よってきて三作(みのさく)という子の習字(しゅうじ)の紙を取って食べてしまったのです。 
  「あっ! 返せ!」 
   三作は手に持っていた筆(ふで)を、シカに投げました。 
   ただおどろいて軽い力で投げたのですが、でもその筆がシカの鼻に当たると、シカはドサッと庭先に倒れてしまいました。 
   それっきり、シカは動きません。 
  「シカが、死んでしもうた」 
  「三作が、筆を投げて殺したんや」 
   子どもたちは、大騒ぎです。 
   お師匠(ししょう)さんも、青くなって飛んできました。 
   神さまのお使いであるシカを死なせたら、たとえ殺そうとしてやった事でなくても石子(いしこ)づめの刑を受けると決まっていたのです。 
   石子づめとは、石をつめて生きうめにされることです。 
  「えらい事や。ほんまに死んどる」 
  「・・・・・・」 
   三作は口もきけずに、ただふるえていました。 
   そのうちに役人が飛んできて、おそろしい顔で三作をひきたてていきました。 
   それから数日後、興福寺境内(こうふくじけいだい)の十三鐘とよばれている前庭に、深い穴が掘られました。 
   可哀想に三作は死んだシカと抱き合わせにされたうえ、石子づめにされてしまったのです。 
   それは日暮れ時で、むかしの時刻の呼び方で七つ(→午後四時ごろ)と六つ(→午後六時ごろ)のあいだの事だったそうです。 
   七つには鐘が十四、六つには十二鳴りますから、その間の十三で十三鐘とよぶようになったとも言われています。 
   三作がどういう子どもだったのか、年は何才だったかは記録に残っていません。 
   でもしばらくあとで三作の母がここへきて、可哀想な我が子の形見にモミジの木を植えたそうです。 
   『シカにモミジ』といわれて、この組み合わせは絵にもたくさん描かれていますが、それもこの事からはじまったといいます。 
   
   またほかの言い伝えには、三作は興福寺のお稚児(ちご→寺院などにつかえる少年)さんだったとか、年は十三才で、シカに投げつけたのは習字の時に使う、ぶんちんの一種で、『けさん』という物だったともあります。 
   
   現在も奈良にはシカがたくさんいて、奈良公園のあたりには千頭以上のシカがいるそうです。 
      おしまい 
         
         
         
        
 
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